感覚で物を言えば、論理的に考え論理的にそれを表現することが絶対的に必要とは私は考えてはいない。しかし、他者と、特に文化を異にする人と、あるテーマについて話し合い何ほどかの合意にこぎつけるためには、論理的展開は必須の土台であることは間違いないと考えている。文化が異なれば、「あうんの呼吸」やら「暗黙の了解」などは通用しないから、世界共通の手法であるロジカルであることに頼るしかない。
日本の学校教育において、物事を論理的に眺めるということはそこそこなされているのかとも思われるが、母語である日本語で論理的に表わすという訓練の場は存在しない。そのような教科は小学校から大学に至るまで存在しない。新学制の第1期生(1949年小学校入学)である私の時代には無かった。今も無いはずである。
論理的に考える力をつけるということは、物事に対して「なぜだ?」という疑問を持つことにつながる。一面から見れば、何かとうるさい存在になる。特に上位に位置する者からは厄介な存在とみなされることにもなる。そういう人間になって欲しくないから、この日本列島では教育の場から「論理的思考とその表現」、特に「論理的表現」という教科は外されている。1949年から今まで、半世紀以上、ずっと外されたままである。
小学校、中学校、高等学校の国語という教科の半分は「文学鑑賞」に割かれている。残りの時間の多くは漢字2千文字を覚えることに費やされる。作文の時間は、「感想文」の作成に当てられる。事実の説明や自分の考えを表現するのではなく、何事かに対して何を「感じた」かの作文である。和歌俳句の制作の延長線上に国語という教科の作文は位置づけられている。
理科、社会(歴史、地理、社会)という教科は論理思考を鍛えるに最も適しているはずだが、ここでは事象を「覚える」ことに重点が置かれ、試験もそのように構成されている。1185年は鎌倉幕府の設立という事実を覚えていなければ試験はペケとなるが、武士が主権を握ることになった意味を考える必要はない。そのようなレポートを提出することは要求されない。
日本人は世界の中で自分の意見を表明することが苦手である、というのは誰もが知っているように事実である。そして、それは英語力が劣るからである、という説明がつく。嘘である。英語が駄目だから意見を言えないのではなく、論理的に表現する力が弱いから討議の場に加われないのである。
もし、英語にとって代わって日本語が世界の共通語になったらどうなるだろうか。世界中のエリートが必死に外国語である日本語を習得し、日本語であれやこれやをかんかんがくがくと討議するだろう。そのとき、日本人はやっぱり蚊帳の外に置かれるのではないか。”アナタハナニヲイイタイノデスカ、ワタシニハワカリマセン”と無視されるのではないか。
論理的に考え、母語でもって論理的に表現する訓練を受けていないのに、グローバルの場で通用する英語が身につくわけが無い。今の「コミュニケーション」重視の英語教育は、海外に出かけての「初めてのお買い物」に成功するぐらいが成果と言える類のものである。テレビ局が隠しカメラでこっそり撮影し番組を作ってくれるのではなかろうか。そして、視聴者はその「健気な」姿を見て感動することになるのだろう。
(13.01.17.篠原泰正)