1950年代半ば、私が中学生の頃、「暴力教室」という題名のアメリカ映画が日本でも公開された。この映画を見たのかどうかは記憶にないが、オリジナルの小説は翻訳で読んだ。作者はエバン・ハンター(Evan Hunter;筆名)でオリジナルの題名は「The Blackboard Jungle」。Blackboardとは黒板であるから「教室」を象徴している。猛獣(飛び出しナイフをひらめかせて暴れる生徒達)とそれに立ち向かう教師が彩るジャングル、すなわちそのような有様のハイスクールの教室という意味になる。この本は翻訳で読んだだけでなく、スペイン語の学習のためにスペイン語訳を丁寧に読んだ記憶がある。(余談になるが、日本語訳で内容を理解した上で英語とか西語のオリジナル本を繰り返し読む学習方法は私がよく用いた方法であり、お薦めである。)
更に余談になるが、Evan Hunterのもう一つの筆名エド・マクベイン(Ed McBain)で書かれた「87分署」(87th Precinct)シリーズも早川文庫の翻訳で随分読んだ。このPrecinctとは行政区を意味し、ここではIsolaという架空の都市(ニューヨーク市を下敷きにしている)の第87警察管区を意味している。そこで活躍する刑事スティーブ・カレーラ(Steve Carella)を主人公にしたミステリーシリーズで、調べみたら1956年から2005年まで全54巻もある。
話を戻して、なぜ突然古い「暴力教室」を思い出したかといえば、この数日、新聞やテレビで報じられている大阪の高等学校での教師の「体罰」およびそれを苦にした(と思われる)バスケット部の主将の自殺事件が頭にあったからである。
この事件の背景は、察するところ、スポーツで学校を有名にするという経営方針の下で、それを請け負っている体育教師がなにが何でも実績を上げねばというところから、暴力でもって生徒をしごいて来たというものであろう。ここでは生徒は学校売り出しの「道具」であり、「教育」とは程遠い扱いを受けていることになる。今回は生徒が耐え切れずに自殺したことで事が大きく明るみに出たわけだが、この図式はそこらじゅうの学校で見られるものではなかろうか。
まあ、その話は置いておいて、「体罰」である。「体罰」という名の暴力行為である。私はこれまでの長い生涯において誰からも殴られたことはないし誰かを殴ったこともない。また、小学校から高校まで、教師が生徒を殴っている現場を目撃したこともない。見なかっただけでなく、学校においてそのような暴力教師に出会ったことはない。従って、肉体的な暴力には極めてアレルギーが強く、教師が生徒を殴る、と聞いただけで嫌な感じ、暗い感じ、そして怒りを覚える。
教育という場でどこを探しても、権威者(教師)が暴力(腕力)でもって弱者(生徒)を従える、あるいは意のままにする、という行為は本来的にありえない。何をどう言いつくろっても、それは「教育」ではない。
「体罰」というあいまいな言葉そもそも間違っている。その行為は単に「暴力」であり、しかも逆らうことのできない弱い立場の生徒に振るわれる卑怯な行為である。会社の中で部長が部下を殴り倒せば、その部長の明日は、よくて左遷(網走支所行き)であり、まあ退職を余儀なくされるだろう。社会ではそれが常識である。学校の中だけ、あたかも特殊地域の如く、教師が子供を殴っても、それが教育指導のやり方の一つとしての「体罰」として認められているのは何なのか。このような檻のなかに放り込まれた生徒がかわいそうでならぬ。
学校とは、東京のブクロ(池袋)、大阪のみなみ、博多の中洲を酒に酔って深夜ふらふら歩くのより怖い所になっているのだろうか。
(13.01.10.篠原泰正)