近代文明とラテン文化(11)
5世紀、アングロ族とサクソン族が手をつないでデンマーク半島の付け根あたりの土地を離れ、海を渡ってイングランドの地に入ってきたのは、ローマ駐留軍が引き上げてから割合すぐのことだったようだ。今のロンドンあたりを中心としてローマ軍の支配下で(多分)細々と生活していた主にケルト族の原住民はすぐに新たな支配者を迎える破目になったわけだ。
そして、この新しい支配者は、それら原住民と融合することなく、それどころかまったくの劣等種族扱いで単に労働力としてこき使うようになる。
近代文明の根幹には、自分(あるいは自分達)以外のすべて、自然物から生物および人間を対象物(object)として眺める姿勢がある、と私は考えてきているが、もしかしたら、その姿勢にこのアングロ・サクソン族の姿勢が強く係わっているのかもしれないと感じる。現文明の表にはなかなか見えてこないが、その底流に流れ続けている「自分達エリート白人優越」という姿勢は、すでにこの5世紀のイングランドで明らかに現れている。
かれらアングロ・サクソン族のこの他者への差別観はどこから来たのか。説明のつかない生来のものであるとみるしかない。
同じ白人種であるケルト族に対しても初めから下層民扱いをするぐらいだから、それから千年も経って後、大航海時代が始まって世界に乗り出すと、彼らが眺める他民族、皮膚の黄色い鼻べちゃのアジア人、色浅黒くコーランを唱えているアラブ人、赤銅色のアメリカ大陸原住民を頭から差別したのは当たり前といえば当たり前の反応であった。ましてや、真っ黒いアフリカ大陸の原住民に対しては、その姿勢は極まる。
これら自分達とは異なる劣等である(はずの)他人種・民族は、彼らの目からはすべてオブジェクトであり、自分達の利益に利用できる・すべき「人間資源/労働力」でしかない。そして、それらの「資源」の中に交じり合うことを体質としてできないところから、冷静に合理的に客観的にそれら資源をマネージすることが可能であった。
軍隊の経営、植民地の経営、企業の経営、いずれにおいても彼らのマネージ力が優れていたのは、この冷たい目で客観的に自分達以外の人間を眺められるところから出てきていた、と私としては考えざるをえない。
同時に、この姿勢は、他人種・民族の「文化」という価値を一切認めない、あるいは認められない姿勢となっても現れる。認めないといったが、もともと関心が無いと言う方が正しいだろう。関心が無いから、ある文化に惹かれてそこに入り込むなんて危険も出てこない。感情が入り込むことがない。例えば、幕末から明治初期にかけて、日本の文化が始めて大々的に欧州に紹介されるようになったとき、一番関心を持ち賞賛したのはフランス人であるが、イングランド人がほれ込んだ形跡はまったくない。
それだからこそ、彼らの対日本への政策(大きくは極東政策の一部として)、つまり外交は最初からゆるぎない一本筋の通ったものでありえた。
差別感の話から「マネジメント」の話に広がってしまったが、この日本列島の住人が黒船を見た時(1853年)からまずその工業力に目も魂も奪われてしまった近代文明の根底には、その文明の主導者であるアングロ・サクソンの「他者(たにん)を見る目」が大きな影を落としていることを言いたかった。その陰があったからこそこの文明はまさに世界規模となり、その結果として、別の暗い影が世界を覆うようになったと言えるだろう。
ラテン地域の人がこの文明の主導者でありえた可能性はゼロであるが、仮にそうだとしたら、この近代文明の姿は大きく異なっていたであろう。人間性が豊かで、しかしシステムもマネジメントもハチャメチャの文明という姿がそこにあったことだろう。
(篠原泰正 12.10.16.)