近代文明とラテン文化(7)
スペインやイタリアでは真面目(まじめ)な人はもてない。まじめであることは「堅物」(かたぶつ)につながる。何事に対しても「まじめに」取り組み、真剣に悩み、本気で対策を考え、定められた規則や法律に従順である、なんて人がこれに当たる。
スペイン語でまじめは「serio」(せーリオ)という。”El es un hombre muy serio. 奴は極めてまじめ人間である”という評価をもらうと、感覚として、”冴えない奴”という印象が強い。ともかく、良い評価ではない。彼らスペイン人がイギリス人をバカにするときの一つの評価に、この”ムイ せーリオ”というレッテル張りがある。
もっとも、このあたりの話になると、”人生すべて冗談である”なんてうそぶくケルトの末裔のアイルランドの人には誰もかなわない。スペイン人もイタリア人もそこまで言い切るほどの凄みはない。(アイリッシュの話はここでのテーマから逸れるので深入りはしないことにする)、
スペインの人が唯一せーリオ(まじめ)になるのは、彼らの言う”El momennto de la verdad. エル モメント デ ラ ベルダ、真実の瞬間”の時だけである。この言葉は、牛との闘いにおいて、闘牛士が牛の頚椎に最後の一刺しを与える瞬間から出ているが、翻って、自分の死の瞬間を重く見ることにつながる。それまで冗談っぽく生きてきたがそれは自分の最後の瞬間を華(はな)と飾る道筋ということにつながる。
話は飛ぶが、マドリの下宿のおじさんから、「神風特別攻撃」を賛美する言葉を何度も聞いた。真実の瞬間を避けず、正面から向かい合って、敵艦めがけて突入する勇気に最大の尊敬の念を込めての賛美である。この歴史一つだけでおじさんの「日本民族」への評価はゆるぎないものになっていて、私などもその恩恵を随分受けたものだ。
もちろん、その真実の瞬間に至る過程においてもせーリオであるとなると、いささか評価は異なってくる。普段は冗談ばかり言っていて、大酒は飲むは女のケツ(尻)ばかり追い回しているはの人間が、いざとなると顔色一つ変えずに突っ込む、というスタイルでなければならない。
なんでこんな話をしているかというと、これだから、スペインはどう逆立ちしても現在の文明国家の先頭グループに入るわけが無いということを言いたいがためである。まじめに工業製品の大量生産に励み、明日の豊かさを夢見て、爪に火をともして刻苦精励するなんて生き方、なんてのは”ばっかじゃなかろか”ということでは、とてもG7の仲間入りは無理である。
まじめすぎる奴は「人間性に乏しい」となる。人間性が豊かであることを評価の最上位に置くがゆえに「まじめ」への評価は低いことになる。それと同時に、スペインは「光と陰 luz y sombra ルス イ ソンブラ」のくにである。上に述べた「真実の瞬間」は生の陰、最終幕であり、それまでの道は光の中にある豊かな生でなければならない、ということである。
アングロ・サクソン式(ゲルマン式)のこの近代文明は、この「光と陰」の陰影に乏しい。全てがのっぺりとした灰色に覆われている感じがする。「生」の躍動感に欠ける。
きれいなねえちゃんに目もくれず、昼飯は味もわからず急いでかき込み、夜遅くまで仕事仕事に追われていて、あんた楽しいですか、という問いかけが、ラテンの人から出されている。近代文明は曇天の下でのまずい食事とアルコール成分無しの酒が似合っている。
(篠原泰正 12.10.10.)