近代文明とラテン文化(6)
社会が毎年毎年良くなっていくと考えていたことは幻想に過ぎなかったと、いわゆる先進諸国のほとんどの人は今や理解している。あの物事をあまり深く考えない(ように見える)アメリカ人でさえも、この20年ほどの現状を眺めるにつけ、社会が良い方向へ、豊かな方向へ発展し続けていくという幻想に別れを告げ始めている。
社会が良くなっていくという思い込みは中産階級が膨らんでいく速度に比例して増えていき、その中産階級がやせ細っていくのに合わせて人々(特に中産階級の)の幻想はしぼんでいく。
人間社会は進歩し、進化し、発展し、成長していくという思い込みは、上に述べたように経済成長により自分の生活が(見た目)豊かになっていくという「事実」の裏づけがあってのことだが、その考え方の根底には、どうも、ダーウィンの進化論が「原理」として承認され、それを基にして国や産業界や学界やマスメディアが鉦と太鼓で民衆を「洗脳」してきたことが絡み合っていると思われる。経済成長期であれば、毎年給料も上がっていくから、なるほどそのとおりだ、社会は進化・成長していくと容易に信じることになる。
現在の近代文明の本家であるイギリス、厳密に言えばイングランドの人々にとって、自分達の国が近世から現代に至るまでほぼ一本調子の昇り竜であったこと、および特にその分家のUSAにおいてはつい最近まで世界の王者であったがために、この進歩・進化の観念は「常識」であったように見える。
一方、ラテン系の地域においては、まずその本家のイタリアでは、かの「偉大な」ローマ文明でも滅んだこと、ルネサンス(*この言葉は再び生まれるという意味であり、ローマ文明の下での人間らしさをもう一度取り戻す運動を意味する)でもう一度ヨーロッパをリードしたけれど、近代になって主導をイングランドに奪われたことを歴史として知っているから、感覚としても”社会は進歩・進化していく”なんて言葉は受け入れる余地を持たない。
スペイン地域の人々も、かつての大スペイン帝国が100年ちょっとで長い長い下り坂を転がってきた歴史を持っているから、進化だの発展だの成長だのといった言葉には惑わされない。
そして、それ以上の要素として、これら二つの地域の人々は、明日の豊かさを夢見るよりも、今日生きていることをいかに楽しむかに力点を置いていることがある。
歴史的経験とこの生活態度が掛け合わされて、これらのラテン系地域の人々は、進歩とか発展とかの言葉に(自分で)酔うあるいは惑わされることが少なかった。(*フランスについては私は知るところが少ないし言葉も習っていないので対象から外している。)
進歩・進化・発展・成長というお題目が、今日では、地球資源と環境の限界に行き当たって、”こりゃアカン”となったが(もちろんまだ懲りずに太鼓叩いている変な人も大勢居るようであるが)、イタリアやスペインの人から言わせれば、”当たり前でしょう、あんな勢いで地球を掘りまくり、大量生産を続けていればそうなるわな”ということになる。
*このシリーズは、多分察せられているとおり、わがニッポンはどうなのだということを常に頭に置きながら書いている。
(篠原泰正 12.10.09.)