社会に関するデータ(data)は、別に「事実」でもなんでもない。しかるべき組織(機関、機構)がもっともらしく出してきた数字を眺めていると、なんとなくそれが「事実」のように思えてくるが、自然科学における実験結果でもないかぎり、どのようなデータに対しても眉に唾して眺めるようにするのが無難である。
この日本列島の住人は世界でも珍しい「性善説」を持つ集団であるから、「公表」された「データ」を事実として受け止める傾向が強いが、3.11の福島原発事故からはさすがにデータを鵜呑みにする危険に気がつくようになったように見える。鵜呑みにすると自分の生存が危うくなるという「事実」に気がついたわけだ。
話は原発事故関連のデータから飛ぶが、今年になって騒がれている欧州金融危機におけるデータも頭から疑いの目で眺める必要がある。例えば、国家域内の経済活動の量を示すGDPについても、公表されている数字がイコール実態と受け止めては大きな判断の誤りにつながる。特に、地中海諸国、ギリシャ、イタリア、スペインといった国々では、各企業や個人がどこまで正直に売上額や所得額などを申告しているかはなはだ怪しい。一説によれば、イタリアのGDPは実際には公表数字の倍はあるという。マフィアがみかじきやかつ上げで得た所得を申告するわけも無く、まっとうな市民でも所得申告がどこまで正直か疑わしいという。
従って、国家の負債額をGDPと比較して、国家財政が危険水域に達したの大丈夫だのといってもあまり意味のないものになりかねない。たとえギリシャやイタリア国家が破産しても、それらの国の社会が同じく破産するとはならない。国敗れても豊かな社会は続く、ということもありえる。もともと、これらの国の民衆は国家機構への信頼感はいつの時代でも極めて薄いから、たとえ国家破産なんて宣言が出されてもほとんど驚かないであろう。
それでは、社会や経済やビジネスの現状分析にデータは使えないかといえば、それはいささか結論の急ぎすぎであろう。データは分析の材料として使える。そのデータを使いこなすためには、なにが必要だろうか。簡単にいえば、経験に基づく「直感」という極めて非科学的な話になる。何年もある一つの場面で生きていると(経験する)、何が本物で何が偽者かが見えてくるようになる。あるいは何が危険で何が安全かがわかってくる。これらは、なぜそういう結論に至ったのか、筋道立てて説明することが難しい「直感」の領域であり、頭脳よりも感性に属するものである。データに関しても、継続的に眺めていれば、ある「ひらめき」につながるようになる。
いずれにせよ、データの鵜呑みは放射能のような有害物質の体内取り込みとおなじように危険であり、一方、鵜呑みせずに噛み砕くためにはそれなりの修行と経験を積まねばならない。
(12.07.26.篠原泰正)