生き抜く18
私にとって、「美学」は全ての軸、心、核、基盤であり「論理」に優先する。そこまでははっきりしている。そしてさらに考えていくと、「論理性」とはどれほど重要なのか、あるいは必要なのかという課題に行き当たる。答えはまだない。
いろいろの方面から、行ったり来たりしながら考えていくために、「原子力発電」(以下において原発と略す)という今もっとも熱い対象を取り上げ、これから何回かに分けて見ていくことにする。
1.美学
私にとって、原発の存在は美学に反するものだから、まったく条件無しに否定の対象となる。この場合の美学とは(多分昨年今頃この場でも書いたはずだが)単純である。世界で唯一原子爆弾によって30万人以上が瞬時に焼き殺され、その倍以上の数の人が浴びた放射線の後遺症で一人また一人と死んでいき、幸い生きながらえたとしても身体の不調に生涯悩まされているという歴史をこの列島は持つ。そこに生きる住民の一人として、原子の力を利用する全てに私は反対する。そうでなければ、瞬時にあるいは苦しみもだえながら死んでいった人に申し開きができない。つまり、自分の存在の誇りにかけて、爆弾だろうが電力だろうがどのような利用であっても認めることはない。少しでも認めてしまえば、それは自分の存在を否定することになる。であるから、私にとっては、原発の問題はごちゃごちゃ考える必要はまったくない。小学生の時に「原爆の子」(新藤兼人監督)という映画を見て以来今まで一瞬の揺るぎもなく私は原子力利用には反対である。これは美学なのだ。
世界の他の国が原発を持とうが、それはその国の人々の問題であり、私は口を挟むつもりはない。しかし、この列島だけはアカン。それなのに、福島原発の大惨事はヒロシマ・ナガサキから66年で再び放射能の被害をもたらした。世界から、”日本人というのはアホとちゃうか”という声が私の心には聞こえてくる。自分の無力も含めて「恥ずかしい」。
とは言え、美学を他者に説明するのはかなり難しい。特に文化(歴史)をことにする世界の人に説明するのはかなりではなく極めて難しい。そこで、論理的分析と判断が必要となるのかなと思う。
2.経済性
お金の面からみて原発は引き合うのかどうか。これは二つの分野で考える必要がある。一つは企業として、もう一つは地域経済として。
(1)企業の採算性
電力会社が純粋の民間の企業であれば、販売する電力を得る手段としての原発は計算するまでもなく、まったく引き合わない。経営陣がどんなにバカでも、原発で生産した電力の売上額と生産に要する費用を比べれば答えは明らかであろう。特に使用済み燃料の永久保管というコストを考えれば、そろばんはじくまでもなくこのビジネスは成り立たないとなる。そして、もちろん福島のような事故を一度起こせば即時にその会社は倒産である。論理的に考えれば、何をどう計算しても原発による電力生産というビジネスモデルは成立の余地はない。
(2)地域の経済性
この列島にある54基の原発の立地をみれば、すべては地方の過疎地がねらわれたことが誰の目にも明らかである。財政補助というにんじんによって、それらの地方は本当に潤ったのだろうか。福島惨事によってこの列島の誰の目にも原発の怖さがわかったいま、これらの過疎地に人は寄り付かず、工場も逃げ出し、本当の過疎地になっていくだろう。しかも補助金を仕事をもたらす地場産業育成に使わず、豪華アリーナやらなにやらの箱物に使ってしまっているので、いずれその保守・維持費が大きな負担となって自治体にかぶさってくる。補助金という飴は、ものもらいの根性に人を追いやり、自力でなんとか生きる知恵と力を絞るという健全な心をそぎ、地域の経済という面からはマイナスでしかない。論理的に分析すれば、このことははっきり出てくるはずである。
長くなるので以下は次回に
(12.06.27.篠原泰正)