自動車様のお通り(2)
”そこのけ、そこのけ、お馬が通る”、という句が記憶の中から浮かび上がってきた。どこでこの句に出会ったのだろう。童謡にあったのだろうか。今となってはもうまったく思い出せない。意味ははっきりしている。騎馬が路上を走るからひづめ(蹄)に引っ掛けられないように避けてくれ、ということだ。場面としては、火付け強盗改めの長谷川鬼平軍団が盗賊一味のアジトにむけて江戸の街を疾駆しているところを想像すればいい。
江戸時代、馬はエリート(特権階級)にだけ許された乗り物であった。(街道筋での旅人用は例外)。紀伊国屋文左衛門といえども騎乗で吉原に通うわけにはいかなかった。明治になるとこれが馬車に替わる。大久保利通が赤坂の紀尾井坂を馬車で通っているときに襲撃されて命を落としたことからもわかるように、馬車通勤は政府高官の特権であった。そして、昭和になるとこれが黒塗りのハイヤーあるいは省庁専属の乗用車に替わる。
1993年から97年、私は地下鉄日比谷線の神谷町駅の真上にある第45森ビルの3階にあるオフィスに通っていた。その上の3フロアほどはすべて本州四国連絡橋公団という長ったらしい名の一団が占めていた。朝10時ごろ理事さんたち(多分)が黒塗りハイヤーでご出勤あそばされ、午後5時にはこれまた「お車」でお帰りになる。車が権力の象徴である。あるとき、その理事さんの一人がビルの地下につながる改札の前で秘書の女性に切符買わせている光景を目撃したことがある。傍で聞いた二人のやり取りから、この理事さんは地下鉄に乗ったことがないと判定するしかなかった。優雅なものである。
馬から馬車、馬車から自動車という歴史のなかで、この列島で行政にたずさわる人たちの頭の中に、自動車(に乗っている人)はテクテクと歩いている「平民」よりも道路を優先的に利用する権利を有している、という関係式が刷り込まれることになった。
そして、さらに、高度成長のなかで、物資を運ぶ自動車とその自動車をつくる集団が大いにもてはやされることになる。現在の(西洋式)文明の根幹をなす「効率 efficiency」を高めるには自動車を渋滞なく滑らかに走らせることが大命題とされ、ほとんどの人がそのことに疑いの目を向けなかった。道路はまず何よりも自動車のためにあるとされた。ほとんどのひとがこの「効率」という西洋式ウイルスに犯されてしまっているため、疑問が生まれてくる余地は少なかった。
そして、さらにさらに、高度成長で中産階級に属するひとが膨張することで、それまで指くわえて見ていた憧れの自動車が誰の手にも容易にはいるようになった。それまで、道を歩いているとき、おえらい人の馬(自動車)に蹴散らされていた庶民が蹴散らす側の仲間に入ったわけだから、「有頂天」とはこういうときのための言葉だと思われるほどの舞い上がり時代がつづいた。
このように、この列島においては、道路の優先権は、自動車、人間、自転車(原付ではなく人力の)の順に収まっている。従って、通学途上の学童の列は、(歩道が整備されているところ以外は)常時、銃弾の飛び交う戦場のごとき危険に晒されている。文明は進んだかもしれないが、道を歩いていて蹴飛ばされて(跳ねられて)死ぬ危険は江戸の時代の何万倍も何百万倍も確立が高い。文明万歳!!
(12.05.09.篠原泰正)