確か司馬遼太郎さんの本だったと記憶するが、旧陸軍において、斥候には大阪出身の兵隊がもっとも適している、というのが定説であった、とあった。斥候とは、隊の前を行き、敵軍を偵察するのが役目である。大阪の兵隊が勇敢であったというわけではない。それどころか、西郷隆盛軍と戦った西南戦争において、「また負けたか八連隊」と言われた如く、大阪の連隊はその鎮台の時から先の太平洋戦争に至るまで、弱いことで定評があった。「こんなアホラシイ戦争ヤッテラレマスカイナ」という気持ちを、口に出せば非国民ということでただではすまなかったので、心の中に潜ませていたのだから、所詮、強いわけがない。また、大阪の兵隊が視力が抜群に良かったわけでもない。要は、何を見るべきかをよく心得ており、その見たことを、的確に上官に報告できる才能、あるいは技能に優れていたわけだ。
当然と言う気もする。大阪は商人の町であり、世の中の動きにうと(疎)ければ、おまんま(飯)の食い上げになる所柄である。そのような環境に育った兵隊が、米相場の売り買いではないが、似たような、戦争という場において、敵と自分達が置かれた状況を客観的に観察し、何がどうなっているかということを「論理的に」報告できるのは当り前といえば当り前である。
一方、日本の兵隊の大半を占めていた農村出身の若者に、このような偵察という役目が適さないのも当然である。自分の村を出た経験も少なく、従って相手の存在をあまり意識する必要もなく、生産物を少しでも高く売るというような動機も持たずに育ってくれば、相手の動きに過敏になることもなかったであろう。生きていく上で、自分の立場をむらおさ(村長)に論理的に説明する必要もなかったであろうから、人にわかりやすく物事を説明する必要性も経験したことがなかっただろう。
これでは偵察にはむか(適)ない。
論理的に表現できる土台には、物事を醒めた目で、つまり客観的に観察できる能力が必要である。”勘弁してやって-な”と自分の仲間のことを頼んでいるかと思いきや、自分のことを勘弁してくれと頼んでいる大阪弁に現れているように、大阪人は自分をも第三者と扱う醒めた観方ができる。この目が敵の戦力を的確に見積もり、さらに、それを事実としてそのまま報告できる図太さがある。日本人のほとんどが軍艦マーチの下で勝った勝ったと浮かれていたときにも、アメリカさんに勝てるわけがない、”こんな戦争にあほらしくて命落とせまヘン”、と醒めていたのが大阪人である。
(05.11.05. 篠原泰正)