日本人が、なぜ、論理的に明快に表現することを苦手としているのか、あるいはその重要性を認めて、教育の場でなぜキチンと教えないのか、について、心理面からもう一度確認をしておくことにする。
(1) 責任を逃れるために
論理的に明快に表現しないことで、そのテーマから発生する結果に関しての、責任を逃れようとする心理が働いている。ここには、心理だけでなく、責任が降りかからないように、意図的に明快に書かないという頭の良い確信犯もいる。いずれにせよ、明快に表現することを避ける奴は、世界の中では「卑怯者」と扱われるし、また「名こそ惜しけれ」という世界に誇れる精神の「美学」を、鎌倉時代以降一千年に渡って維持してきた日本人の、風上には置けない存在である。
(2) 村の中で平穏に過ごすために
はっきり言うと角が立つ、と思い込んで、あるいは実際の生活の知恵で、曖昧に表現することが身に染み込んでしまっている。この癖のまま世界の中に入っていくと、「卑怯者」というレッテルにプラスして、物事を筋道立てて理解できない、表現できない「頭が弱い人」というレッテルも頂戴することになる。
(3) おのれが権威を示すために
庶民、平民、無学の者と違って、俺は高等な技能と頭脳を持った専門職、エリートであることを示す方法として、わざわざ難解な文章を書く。一昔前までは官公庁にこの手の人間が多かったが、さすがに今ははやらなくなった。しかしまだ特許弁理士先生などにはこの手の人がいるようだ。わざと分かりにくく書いているようだが、実際は、頭が明晰でないから分かりやすく書けない人が多いのではなかろうか。
(4) 世界中が日本と思っている幸せなイナカッペ
海の向こうには色々な人がいるという事実を知らず、自分の流儀が世界の流儀と思い込んでいる幸せな人がまだ生存している。明治生まれで40年前になくなった私の祖母は、神戸の周り、広くとも関西地区から一歩も出たことのない人だったので、昭和二十五年、初めて東京に来たとき、「なんでここのお人は変な言葉をしゃべってはるのかしら」と驚いていた。
(05.11.05. 篠原泰正)