叔父(母の兄)が闇市でアメリカ軍の毛布を2枚買ってきてくれた。われわれ兄弟3人が夜暖かく寝られるようにとのやさしくありがたい配慮であった。
実際、このアメリカの国防色である濃いオリーブ色の毛布は、信じられないほど暖かく、子供二人が包まって寝るに十分の幅と奥行きがあった。しかし、この毛布には大きな文字でUSAと刻印されているところが、小心者の私を怯えさすに十分であった。誰かは覚えていないが、多分6歳年上の長兄が、この毛布が見つかるとMPに連れて行かれる、と冗談混じりに話したことが頭から抜けなかったためである。
MPとは、後に少し大きくなってから知ったのだが、アメリカ陸軍のMIlitary Policeの略であり、日本の陸軍では憲兵と称された軍隊の中の警察である。その姿は、当時駅前などではごく当たり前に見られたように、鉄兜(ヘルメットなどというかっこいい言い方は当時は無かった)に大きく白地でMPと記し、カーキ色の制服に白いバンド(ベルト)を締め、ズボンのすそは軍靴も覆う白い脛当て(すねあて)で決めていた。すねあてをなんというのか、日本陸軍の兵士のゲートルとは異なり、後にプロ野球のキャッチャーがするようになるレガーズに似ていた。
MPが調べに来たらどうしようという不安は、あながち根拠のないものでもない。当時、西宮北口にも大きなそれがあったようだが、闇市には米軍のPXから闇で流れ出した物資が豊富にあり、お金さえあれば何でも手に入る、というような大人の話を傍で聞きかじって知っていた。PXとは、これも後になって知るところだが、Post Exchangeの略であり、アメリカ軍の駐屯地の中にある今で言うスーパーマーケットのようなものだったらしい。兵士およびその家族が必要とするどんなものでもここで格安で買えたらしい。その物資が、どのようなルートで外に流れ出すのか、当時も今も私の知るところではないが、生活用品や食糧などは何でもかんでも流出していたようだ。
叔父が買ってきた毛布はしかしUSAの刻印が打たれているところから見ても、これはPXの市販品ではなく、兵士に無料で配布される支給品であった。日本の軍隊もそうであったが、アメリカ軍も将校ではない下士官(軍曹など)兵士(一等兵など)の用具(下着から鉄砲まで)すべては官給品であり、食事も軍隊経費であった。これらの支給品はG.I.すなわちGovernment Issues(政府発行)と称され、それが兵士そのものを指すようになった。私がこのGIの意味を知るようになったのは、多分、高校生のころの、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)の歌「GIブルース(G.I. Blues)」による。
このようなGI品、すなわちアメリカ政府の官給品まで闇市にあったということは、それが米軍のでたらめさの結果なのか、それとも日本の闇市の元締めの凄腕によるのか不明であるが、叔父はどれほどのお金で購入できたのだろうか。母の実家が灘の造り酒屋(大手ではない)であることは前回触れたが、終戦の直前、20年春の数回の神戸空襲によって、すっかり焼き払われてしまっていたから、お金が潤沢にあったはずがない。考えられるのは、酒屋の武器であるお酒である。1升瓶をぶら下げていけば、鯛でもかつおでも丸ごと一匹喜んで売ってもらえた、という話を母から聞いた覚えがあるので、もしかしたら、何本かの一升瓶がこの米軍毛布に化けたのかも知れぬ。蔵は焼けてしまったけれど、同業のどこかで細々と酒造りを叔父は再建していたのかも知れぬ。そのおかげで、われわれは、米軍兵士のようにぬくぬくと夜を過ごすことができたわけだ。
怖れていたMPの家宅捜査は無かったけれど、多分、このような毛布を私有していることは世間様には内緒であったはずだ。そして、この毛布は質が良かったので、その後もずいぶん長い間お世話になることになった。
もの心ついて初めて実際に触れたアメリカ文明がこのGI毛布であった。綿の薄いせんべい布団と比べて、その手触りや暖かさは圧倒的な力でもって、”アメリカはすごい”と思わせるに十分であった。私にとって、めくるめくアメリカ文明はまず毛布という姿でやってきた来たことになる。貧しい食事、つぎはぎだらけの着物、下駄しかない履物、決まった時間に停電する電気、身の回りのそれらの貧しさの中でこの2枚の毛布はあまりにも異質であった。
私の前に現れたアメリカ文明はまずその工業力で代表されていたことになる。子供心にも驚嘆したこの工業力を目の前にして、当時の大人が、なんとしても日本をアメリカのように、と必死の決意を固めたのは、当然と言えば当然である。敗戦という焼け野が原に呆然とするまもなく、多くの日本人の目の前に、目標とすべきものが具体的な形で示されたことになる。幕末の黒船に驚嘆したあくる日から、西洋列強に負けるな、としゃかりきになった二、三代前の日本人と同じように二度目のがんばりが始まる。それが、この昭和21年から始まる復興期であった。私はもちろんそのようなことを知るわけも無く、MPの悪夢にうなされながらも暖かい毛布に包まって快適な夜を過ごし、夜が明ければ、ひがな一日路地での遊びに夢中になってこの時代をすごしていたことになる。
(11.10.01.篠原泰正)