”「文化」とは何か”、という題名をつけてから、”しまった”、と思ったが、訂正するのも面倒なのでこのままで行く。
極めて単純化して言えば、「文化」と「文明」が私の生涯のテーマ、特にその両者の接点のあたりがテーマであるけれど、この両方ともに、定義するのは至難の業である。その一方で、定義もしないで「文化」云々、「文明」云々と言い散らしたり書き散らしたりしているのもなにやら落ち着かない。社会学の世界を土俵にしてきたためか、それともビジネスの世界で鍛えられたためか、因果なことに、使う言葉の「定義づけ」がいつも気になる。そのため、己の力量を無視して、なにやら定義づけを行わねば成らない破目におちいることになる。
この日本列島に住まう人間集団の文化は、数えて見ると5回ほど大きな変革の波を受けてきた。
一番目は1185年の平家滅亡と鎌倉幕府の創設を境とする。最終登場者としての平家に代表される京都朝廷を中心とする文化がここで崩れ去った。これ以降、形あるものはいつかは壊れる、いのち(生命)あるものはいずれ死ぬ、という無常観がこの列島の文化に根付くことになる。「もののあはれ」という優美な言葉で代表される死生観がその「無常」の土台と成っている。ここでついでに言えば、自然災害と人災の区別をつけない文化はこの無常観の故である。そのため、人間の仕業への怒り、例えば原発事故で家も土地も何もかも失ったことへの怒りが目に見える形で爆発しない。(国家の経営者にとってこれほど御しやすい国民は世界広しと言えどもこの列島が一番であろう。-余談)
二番目は、15世紀半ばの応仁の乱である。これは「下克上」の時代である。「下克上」とは文字通り、下が上を克する、つまりやっつけることであり、国司とか守護とか言ってデカイ面している者たちが張子の虎であったことがばれて、「階級」なんてのはその時その時でどうにでも変るシステムであることが実感されたときでもある。もちろん、ここにも「盛者必衰」の無常観が底に流れている。
三番目は1615年の大坂夏の陣の敗北である。「敗北」とするのは、私が関西の生まれであり、小学生の時に熱中した講談本において何よりも真田軍団(幸村を大将とする真田十勇士他)のファンであり、家康が大嫌いであり、鎖国という臆病な政策をとった徳川幕府に深い恨みがあるためである。これによって、応仁の乱に始まる上も下も無い自由な風は吹き飛んでしまい、箸の上げ下げまで規制する行儀作法と階級性の枠内にこの列島の住人は押さえ込まれることになる。これ以降の200年という長い時間はこの列島の「文化」に多大の影響を及ぼすことになる。
四番目は1868年の明治維新である。このときから、西洋文明という暴風雨にこの列島の住民は晒されることになる。「文明開化」の名の下にどれだけの価値ある「文化」が葬り去られたことか。
五番目は、1945年、太平洋戦争というアホな戦(いくさ)の終焉に始まる。このときは、西洋文明の最前衛であるアメリカという頭も心も極めてシンプルに出来上がっている集団によって、日本文化というものが根こそぎ否定された。もちろん彼らが銃剣でもって脅かして捨てさせたわけではなく、そのシンプル性においてアメリカーノに負けずとも劣らぬ追随者が多く現れたことによる。
明治維新以来今日まで、時間としては143年に過ぎない。大戦の終わりからは66年である。これほど短い期間に二度も「西洋文明」という大津波を受けたために、この列島の「文化」はずたずたにされたといえるが、どっこい、しぶとく生き延びているともいえる。
その「文化」とは一体何か。単純に言えば、「文化」とは人間の心掛ける行動様式であり、「文明」とは人間の頭掛ける行動様式、と定義づけることができる。心の多くは「感性」に土台を置いており、頭の多くは「知識」に土台を置いている。これがまず、「文化」とは何かの定義づけの一番目とする。なお、急いで付け加えれば、この列島の外の世界では、「感性」の代わりに「宗教」が心の土台となっているというべきであろう。いずれにせよ、「文化」を定義づけるには、この列島の外にも目を配らなければならないことは明らかである。
(11.09.01.篠原泰正)