(199) 論理的思考、あるいはその表現
06年7月15日の朝日新聞に、国立教育政策研究所が実施した調査の結果が発表されたとの記事があった.この調査は、全国の小4から中3の生徒3万7千人を対象として、国語と算数・数学の「特定課題」についておこなわれたとのことである.
その結果は、朝日新聞の要約によると、以下のようなことらしい.
「難点として浮かび上がったのは、論理的に考えたり、筋道立てて考えを表現したりする力.答えは出せても、そこに至る過程を説明できない傾向もあり、研究所は”国数共に、文章をもっと書かせる指導が必要”と指摘している.」
子供たちが論理的思考とその表現に弱いことは、驚くべきことでもなく今に始まったことでもない.戦後の教育の全期間を通して、論理的に考えそれを明快に表現する教育はなされてきておらず、その教育結果は、現在の大人たちを眺めればすぐにわかることである.つまり、日本人全体がこの論理思考と表現に弱いわけである.
論理的思考とは、ある一つの事項に関する情報を集め、その情報を分析し、問題点を見つけ出し、その問題を解決する策を考え出すことに他ならない.つまり、自分で情報を集め、自分の頭で考えることに他ならない.
子供たちにこの能力を付けさすためには、少なくとも一つ、その子供が興味を持つ対象あるいは分野を持たすことが必要となる.その子供の得意技、長所を自覚させそれを発展させるように支援することが必要となる.この支援活動を本来の意味での教育という.
興味も何も無い事項が与えられて、さあ論理的に考えなさいと言われても、やる気がでるわけがない.理科でも社会でも国語でも数学でもスポーツでも、対象は何でもよい.その子が得意とする分野を対象とすれば、自分でせっせと情報を集め、小さな頭を回転させて問題点を探し、解決策を考え出してくるはずである.頭の良し悪し(本来そのような基準は存在しない)に関係なく、誰もができる「作業」である.
そのことができれば、次は、それを表現するという課題となる.自分が集めた事実を描写し、問題点を示し、改善策を表現する.更に、どの様に進めてきたのか、最初からの過程を表現する.これが論理的表現である.
この60年の日本における小学校、中学校の教育でもっとも誤ってきたことは、「作文」が国語の教科の中でのみ取り扱われてきたことにある.日本語で文章を書くわけだから、それが国語教科の範囲に置かれるのは当然であろうが、作文すべき対象は、音楽から体育まで全教科に置かれるべきであり、それらにおいて、上に述べたような論理的に考え、論理的に表現する指導と訓練が行われていれば、今日、日本でみられるような惨状は防げたであろう.
もちろん、繰り返すようだが、この指導と訓練は、全教科に渡って一律に強制するべきものではなく、こどもたち一人一人の自分の得意分野でのみ指導すべきことである.そうでなければ、全員、学校から逃げだしてしまうだろう.義務教育の期間に自分の得意分野一つだけでこの訓練ができていれば、その後高等学校、大学ではその他の教科においても、好きでもなく得意でもなくとも、自分の得意分野で培った(つちかった)論理展開と表現は適用できることになる.ひとつを習得すればその他に応用できるわけだから.
思考と表現は表裏一体であり、考えられなければ明快に表現できず、明快に表現できなければ考えがまとまっていない、考える力が無いということになる.
論理的思考とは、簡単にいえば自分の頭で考えるということであり、このことができていないから、この20年の日本の没落がある.欧米に追いつけと、お手本が目の前にあったときはあまり考えることもなく黙って手足を動かしていればそれで済んだ.それが、ある日気がつくと先頭集団で走っていた.どちらに進めばよいのか自分で考えなければならなくなった.自分で考えて、先頭集団仲間に、あるいは後ろの集団に声をかけて、相談しながら方向をまとめていかねばならない立場になった.しかし、自分で論理的に考え、その考えを論理的に表現する訓練を受けてこなかった、自分にその訓練を課してこなかったために、先頭集団にいながら、何も考えられず、何もしゃべらない、怪しげな存在となっている.
自分の頭で何も考えられないから、この20年、国や企業が取った手段は、ひたすらアメリカ様のご指導に従うものであった.日本では、先生の言うとおりに何でも無批判で従い、黙々と知識だけを詰め込む生徒を「優等生」というらしいが、もちろんそれらの優等生は、人間の本来的な存在意義からいえば、優等どころか「痴呆生」と称すべき存在といえる.
更に付け加えれば、改善策まで考え出す力はあったとしても、それを実行に移すべく提案する「勇気」に欠けていては、何にもならないということだ.しかし、この「勇気」の話題はここでの扱い事項ではないから、またの機会に譲ろう.
(06.7.16.篠原泰正)