例外はあるけれど、一般的に言えば、江戸時代は社会科学の学者先生たちからあまり良い評価を受けてこなかった。
今はもう廃れたけれど、マルクス主義経済学(通称マル経)からは、江戸時代すなわち「封建時代」のレッテルを貼られ、「封建領主」の下で「人民」は苦難にあえいだ「前近代」としてばっさりと「科学的に」切捨てられてチョン、の扱いを受けた。一方、そのマル経に対抗する近代経済学からも、この時代は資本主義に基づく近代国家以前の「前近代」として似たような扱いしか受けてこなかった。両者ともに、「科学」の名の下に人間社会を総合的に眺めることができなかったことを示している。
私の個人的好みから言えば、江戸時代は好きではない、ということになるが、その理由のほとんどは「鎖国」をしていたからという単純なことから出ており、人々が狭い列島の中に閉じ込められていたからである。元気のある者にはこの鎖国体制は耐え難い束縛であったろうと感じる。しかし、一方で、世界のことなど自分の生活に何の関係もないとして、その日その日を安穏に暮らしている人々にとっては、多分、それほど悪い時代ではなかっただろう。
江戸幕府創設の初期に起きた島原の乱以降、幕末の幕府・長州戦争までの200年以上、戦争と一切無縁の社会であったことは、同じ時期の、戦争に明け暮れていた欧州の国々と比較すればその特色は際立つ。国内だけでなく、もちろん、対外的にもいかなる侵略行為もとらなかった歴史は、社会体制がそれなりに整った国としては、特に欧州の目から見れば、まことに驚嘆に値する。世界史の中でこのような奇跡を持った国はまれであろう。
資本主義とは、その基本の性質として、止まることなく膨らんでいく力学に基づいており、そのために、その勢いは一国の枠内にとどまるものではなく、常にグローバルな展開を当然の動きとしている。そう見れば、もし江戸幕府が鎖国体制をとらなければ、江戸時代の資本主義経済は必然的に中国や東南アジアに進出することになったであろう。極めて内向きな、あるいは農民的な徳川幕府が外国の脅威を恐れて鎖国という異常な体制を敷く以前、すでに戦国時代のこの列島は「大航海時代」の極東地域の主役であり、海の向こうの地との貿易なんぞはごくごく日常的な行いであったことから見ても、鎖国さえしなければ、東南アジアの地が日本勢と欧州勢(主にスペイン、オランダ、イギリス、フランス)のつばぜり合いの場となったことであろう。つまり、17世紀、18世紀の初期帝国主義時代のドンパチがフィリピンやベトナムやタイやビルマの地で繰り返されたであろうことは十分に想像できる。初期資本主義の芽はすでに十分に戦国時代に養われていたからである。
鎖国によって、本来的にグローバル展開をせざるをえない「資本=お金」が国内に押さえ込まれたために、そのエネルギーのはけ口が得られず、社会は全体は極めて内向きの性向を示すようになる。紀伊国屋文左衛門などの大商人たちの吉原での大散財などは、このエネルギーのはけ口を押さえ込まれた商人資本のやけくその表れと見ることができる。せっかくの力を発揮できない苦しさは、元気のある者にとって大いなる苦痛であったろう。
一方、その資本力は、農業に向かうこともできなかった。農業すなわちお米の生産をもって経済の根幹とした、極めて百姓的な徳川幕府の政策の下に、三百諸侯(実際は二百ぐらいか)と称された大小大名たちの経済経営もひたすら「米生産」に頼ることになり、その厳しい統制の下では商人資本が投資されるチャンスはありえなかった。海外との貿易もだめ、農業投資も出番がない、となると、せっかく儲けた金も吉原で撒き散らすしかなかったのであろう。
話がタイトルから外れそうなので戻す。
米の生産を中軸に置いて、この列島を隈なく耕す経済の下で、この列島の自然美は箱庭的なものになっていった。「さとやま(里山)」という言葉が戦後になって発明されてその美を一言で表現することができるようになった、その里山とは、地形的に、田んぼと接する手入れされた山すそをさすのだが、その里山を含めた農村のたたずまいがついこの間まで、高度成長と列島改造で国中を掘り返すまで、この列島の自然美を代表してきた。はたち(二十歳)になるまで私が目にしてきたこの列島の姿のほとんどは、多分江戸時代のそれとほとんど変ることのないものであった。今、多くの人が郷愁を抱く田園の風景とは、外に向かうエネルギーを内に閉じ込めた結果、隅々まで手入れされた江戸時代に完成し維持されてきた自然の美である。外に向かう荒々しいエネルギーを押さえ込んでのものであるから、そこでの美は穏やかな優美な、言葉を変えて言えば、なにやら「なよっとした」美となった。
この江戸時代が200年も続けば、その「なよっと」した美がこの列島の「文化」として根付いたのも当然であるが、資本の展開を全面的に解禁した戦後の社会の中で、つまりせいぜいこの半世紀の間に、荒々しい資本の原理の下に、つまり文明の名の下にその文化が壊されていくことにもなった。それは、半世紀前までは普通に見られた江戸時代の名残の風景が消えていくことでもあった。
その一方で、同じ西洋式科学工業文明を採用しているとはいえ、この列島の姿と人々の心の在りようが欧州や北米と様々な面で異なり「日本らしさ」という美を失わずにこれたのは、この江戸時代につちかってきた美=文化が大きな要因のひとつと言えるだろう。
上に書いたように、江戸時代は私の好みではないけれど、この時代を「前近代的」といった無神経な言葉でばっさり切り捨てるみかた(観方)は、美の感性を持たない人のものであろう。
(11.08.12.篠原泰正)