もし、歴史そのものを人類の世界遺産として登録できるのであれば、鎌倉から戦国の終わりまでのこの列島の歴史は、間違いなく選考委員会の満場一致で合格するであろう。当時の中国、イスラム世界、欧州の歴史と比べてその華々しさになんら遜色もなく、人類が到達した社会のひとつの典型として輝いていることが認識されるであろう。
鎌倉・室町に続く、1400年代半ばから1615年までのおよそ150年のこの列島の歴史は、表から見れば、あるいは新聞の政治面から見れば、争乱に明け暮れていたかに見えるが、その裏には集団としての人間の豊かな活力があふれていたことが見えるだろう。
明治維新からのこの列島の住人の近代を眺めると、多分最大の欠点ともいえる自治意識と能力の欠落が目立つけれど、これは何も伝統的なことではなく、徳川時代250年の間にせせこましい枠の中に押し込められていた後遺症といえる。「自治」とは文字通り”俺たちのことは俺たちで決めて俺たちで経営する”覚悟とそれを実現する能力を意味する。
戦国時代はこの自治意識がこの列島の歴史上最高に高まった時代であり、事実、各所でその具体的実現が見られた。例えば、1487年に足利幕府の守護大名である富樫氏を放逐し、その後1580年石山(大坂)本願寺の信長との和睦までの100年近く、加賀の国を「百姓の持ちたる国」として地侍の連合が国を治めた歴史がある。彼らが共通の信仰としたのが一向宗(浄土真宗)であるため、この自治連合は「一向一揆」と歴史書では呼ばれることが多いが、「一揆」とはもちろん中央政権側から眺めた言葉であり、しいて名づけるなら「一向自治」あるいは加賀の国を「加賀一向自治州」とでも呼ぶべきものである。
話は飛ぶが、いつの時代においても、また洋の東西を問わず、中央(国家)政権にとっては「自治」運動とその実現は悪性のガン以外の何ものでもなく、もしそれが現れてくれば、あらゆる手を使って叩き潰そうとする。そして、一国の歴史は、その中央政権の側から描かれるのが通常であるから、戦国の時代も信長と秀吉による全国統一およびその後継者の家康による統一と平和に話の重点が置かれる。統一者たる信長に抗した加賀の門徒衆の自治は、したがって「一揆」という「反乱軍」のレッテルを歴史の教科書の中でも貼られることになる。そのためもあって、今に至るまでこの「加賀自治州」の歴史は大きく取り上げられることもなく、研究も十分になされてきたとはいえない。
また、魅力的な自治集団は、今の和歌山市を中心とした地域を仕切ってきた雑賀衆のそれに見ることができる。上に立つ大名を持たず地域地域の小集団が合議で物事(戦をするかどうかなど)を決める自治体制を維持してきた。彼らも結局は中央統一者である秀吉に蹴散らされることになる。
さらにもっと魅力的な自治集団は、大商人の連合である堺自治区にある。彼ら商人連合は中央の束縛を嫌い、町は自分たちの寄合いで経営し、誰の許可を得ることもなく遠くタイ、ベトナム、フィリッピンなどの地と大きな交易事業を営んでいた。秀吉による全国統一政権が出来上がらなかったなら、彼ら堺衆の自治区は当時のイタリアのベネチアやジェノアの共和国のごとき姿にまで発展したのではなかろうか。それほどの魅力と活力を感じさせる。この堺自治区の存在は、当時の秀吉にとって目障りであっただけでなく、その後の徳川幕府から今に至るまでの中央政府にとっても歓迎できない存在であるため、せっかくの輝かしい歴史もあまり世に知られていない。
自治とは美学のひとつの現れである。上からの支配を嫌い、自分たちのことは自分たちで決めて経営するという「誇り」の現れである。誇りとは己の存在を価値あるものとして高く評価するところから生まれるものであり、そのような意識もなくただ流されて生きているだけの人間には生まれない。この誇りは階級と民族と時代に関係なく、世界のどこにおいても持つ人は持つし持たない人は持たない。誇りが高いことと支配・強制されることを苦にしないことが一人の人間の中で両立することがありえないことだけを見ても、自治の基本に誇り(自負)があることははっきりしている。
この列島の戦国時代は、無秩序な争乱とその中からの全国統一という面からではなく、この列島の住人の多くが、己の存在に誇りを持って”自分たちのことは自分たちでやる”という輝ける活力と精神を示した時代であると認識したい。その精神は間違いなく鎌倉時代に確立した「名こそ惜しけれ」の美学から出ており、同時に、その自治を現実のものとしうる経済力がこの列島の各地で十分についていたことを示している。
(11.08.10.篠原泰正)