鎌倉時代(1185年設立)から戦国時代(1615年の大坂夏の陣で終わる)までの400年は西欧のルネサンス(Renaissance)の時代にほぼ重なる。この列島がもっとも輝いた時代でもある。
話は飛ぶが、太平洋戦争が終わりそのしばらく後まで、西欧世界以外で、西洋式の近代資本・工業文明を採用し自分のものにしたのはこの日本列島の住人だけである。なぜ、日本だけが成功したのかについては、日本の近代史を学ぶ人の頭の中で消えることのないなぞであり、日本近代史の研究とは一言で言えばその疑問への回答を探る旅でもある。この問いかけに対する私の答えは、この日本列島は西欧のそれと似たルネサンスを経てきており、精神の面でいつでも「近代」を迎える準備ができていたから、となる。江戸時代の鎖国という中休みはあったけれど精神はすでに西欧に伍するだけの成熟をしていたと言いたい。つまり、アジアの中で一人西洋式近代を取り入れることができたのは、私にとっては不思議でも何でもないと言うことになる。なお、近代資本・工業文明の展開に必要なお金、つまり資本の蓄積の面では江戸時代に準備されていたことも「近代化」成功の要因のひとつであるが、経済面での考察はここでのテーマではないので省く。
働かず花よ蝶よと遊び暮らしている京都の公家衆とその奴隷である律令の民というばかばかしい図式に対し、主に関東の自営農(武士)が叛逆して打ち立てたのが鎌倉幕府であり、それは前回にも書いた「名こそ惜しけれ」の倫理を核とする個の確立を土台にして成立した。彼らの独立心の強さは、例えば武蔵国の西部にある高麗郡を中心とした武蔵七党(横山、猪俣、野予、村山、西、児玉、丹)の特色として歴史にも記録されている。その名称からして、高麗郡こそ高句麗の末裔たちの移民先の中心であったに違いない。関東土着の民(奈良・平安朝の成立で律令制に組み込まれてしまった)と高句麗の民の混血の中から成立したであろうと思われる「名こそ惜しけれ」の精神美学または個の倫理感の確立は、西欧のルネサンスに比肩しうる画期であった。
個の確立を土台にした鎌倉時代は、仏教においても、その雰囲気に似た禅宗を採用することになる。禅とは自分のことは自分で律する(自律)覚悟を自分で鍛えることであり、自分の飯は自分で稼ぐという(自活または自営)生活態度の上に成り立っている。
13世紀の蒙古襲来の時、京都の国家宗教(鎮護仏教)はただひたすらに護摩を焚き上げて”国家安泰、怨敵退散”を祈祷するだけであったが、自分のことは自分で守る(自衛)姿勢が当たり前の鎌倉武士は、全国から遠く北九州の地まで馳せ参じて蒙古軍と対峙した。この元寇の役を乗り越えることができたのは、神風の助けもあったのかも知れないが、その根底には、自律、自立、自衛、自営の個の確立があったればこその勝利であったといえよう。なお、余談であるが、蒙古軍の先鋒は元に征服されてしまっていた朝鮮半島の高麗国軍であり、これは唐に滅ぼされた高句麗の二代目国である。戦役の後も久しく博多の民がその恐ろしさを語った”コクリ(高句麗)、ムクリ(蒙古)が来た”にその事実が語られている。坂東武者が高句麗移民との混血であるとする私の見方がもし正しければ、600年の時を経てその末裔同士が北九州の浜辺で死闘を繰り返したことになる。
このように、日本におけるルネサンスはまず鎌倉時代に個の精神の確立で始まる。なお、仏像などの造形美においても個の確立に基づく写実がこの時代に始まるのだが、私の知識はそこに深入りするだけのものがないので、その話題は避けることにする。
長い(約60年)南北朝の争いの後、北朝の大将の足利氏(三代目義満)が開いた室町時代が始まる。(幕府は1336年に尊氏によって開かれていたがここでは南北朝の終りからを室町時代とする。)応仁の乱(1467年から)以降を戦国時代と区分するなら、室町時代は100年に満たない短い時間であったが、この間に、鎌倉の個の精神の美学とは別の分野でひとつの美学が確立する。このもうひとつの「きれい」は様式美としてくくられるであろう美学である。
様式には動的な面と静的な面があり、動的な様式美は「所作(しょさ)」として体現され、能から始まり茶の作法や日本舞踊などがその例である。静的な様式美は、例えば建築の様式に体現される。いずれの場合も、その基には「かた(型)」がある。話は飛ぶが、剣術もこの室町時代に始まり、これもひとつの動的な様式美を体現するものであると言えよう。
「所作」の型のひとつに「礼儀作法」があり、これもこの時代に確立され、今のわれわれのような雑駁(ざっぱく)な民衆にはほとんど失われてしまっているが、戦後しばらくの間までは日常の生活の中でも当たり前に見ることができた。(忠臣蔵における松の廊下で浅野内匠頭が”殿中でござる”として組み伏せられたのも、江戸城内の殿中における礼儀作法にもとるからであった。)
この時代に編み出された様式美の特徴は、「きれい」のひとつである整理整頓の美、および、清潔の美と倫理の美を掛け合わせた「清らかさ」の美をその中心に置いているところにある。「清らかさ」は簡素あるいは質素であらねばならず、「華美」の概念とは反対の極地にある。「清らかな所作」とはしたがってその進退が簡素でなければならず、結果として「すがすがしい(清々しい)」印象を与えるものとなる。
静的な様式美は、もちろん、優れた造形美の感性を要求し、その感性が豊かなこの列島の住人の存在があってこそ成り立ち、また発展したと言える。陶芸から織物に至るまでこの列島の住人が生み出してきたところの自然素材に基づく数々の手工業製品は、この造形の感性に基づく様式美の結晶であり、また、その様式に基づきながらも様式の束縛を突き破ったところに、芸術の高みにまで至る「作品」が生み出される。このレベルに至ることを「破格(はかく)」という。
明治以降の近代工業化時代において、この列島が生み出す工業製品が、西洋のそれと一味もふた味も違うものを出して来ることができたのも、その基はこの室町時代に確立された様式美の伝統のおかげである。
動的様式美である「所作」が「きれい」であること、そこに倫理的な要素を含めて人間としての「進退」が「きれい」であること、造形美感性に基づく静的な様式美に基づく簡素な建築様式(桂の離宮がその代表)が示す「清々しいきれいさ」や列島各地の工芸品、民芸品が示す「さりげない美しさ」など、すでに滅んでしまったものもあれば幸いにもまだ継続されているものもある。
鎌倉ルネサンスが生み出した精神の美学を忘れ去ってしまえば、この列島の住人は「精神の下層民」の集まりに過ぎないものとなり、室町ルネサンスが生み出した様式美を失ってしまえばこの列島の文化は「文化」と称することもできない低みによどんでしまうことになるだろうし、その工業製品は世界の中で誰が作っても同じ類に堕ちることとなろう。
(11.07.23.篠原泰正)