プラスティック製品に初めて出会ったのは、小学6年か中学1年の時、ニューヨーク出張土産として父親が買ってきてくれた、B-29の精巧なプラスティック・モデルであった。当時われわれヒコーキ少年が作る模型は胴体も翼もすべて木を削ることで生み出していく「ソリッドモデル」と呼ばれていたものであり、それと比べてパーツをチャカチャカと組み立てて接着剤で固めるだけの「製作」はなにやら味気ないものであったが、その部品部品の精巧なできばえには驚くばかりであった。木を削り絵の具筆でラッカーを塗る腕前を誇っていた「職人」が突然アメリカ式大量生産工業に圧倒されたようなものであり、輝くばかりのアメリカ文明が手の中で姿を現していた。
このプラモデルに驚いているうちに今度はナイロン繊維(当時は化繊-化学繊維または化合繊維と呼んでいた)に驚かされ、ゴムびきの雨合羽がビニール製の合羽になり、ゴム長靴が合成ゴムに替わり、アルミの弁当箱がプラスティックに、皮製品がいつの間にか合成皮革と、身の回りが化学合成品で埋め尽くされていくことになる。これらの製品こそアメリカの技術文明を代表するものとして消費者向け工業製品の大量生産の始まりを告げるものであった。
それは同時に自然素材にさよならを告げることでもあり、手作業で作り上げる時代から化合素材を型に流し込んで機械がポコポコといくらでもどんな形の製品でも「生産」する時代になったことを示すものでもあった。この戦後の半世紀はまさにプラスティックの時代と呼べるものであろう。そして、その裏側では身の周りの道具が次から次へと「使い捨て」に変身していく過程でもあった。
身の周りの実用の道具や衣服や調度品を「工芸品」にまで高めていたこの列島の住人が、安っぽいプラスティックを唯々諾々と受け入れていったのはなぜだったのか。戦争で打ちのめされていたその目の前に並べられたプラスティック製品が、輝けるアメリカ文明の象徴のように見えて心が奪われてしまったためか。それとも、商売の感覚に長けた一部の人々がこれぞ大もうけのネタであるといち早く悟り、その加工製造販売にまい進したことによるのか。あるいはその価格の安さが人々の購買意欲を強く刺激したことによるのか。その材料の石油(後に天然ガスも加わる)が世界のあちこちで容易に採掘でき、安価にいくらでも手に入ることがその後押しをしたためか。
さらに考えれば、「便利さ」という文明のひとつの要素をプラスティックは十分に体現しているがゆえに、技術文明の成果が大衆のレベルに浸透する代名詞となったと思われる。そして、便利さの代償にわれわれは美的な感性を失っていくことになる。金属は自然の中に存在する要素を熱したりたたいたりして取り出した素材であるから、その利用は人間にとって何千年もすでに馴染みが深い。その金属でできた弁当箱はその意味で何千年の延長線上にあるもので違和感は生まれない。しかし、プラスティックは自然の中に存在していない化合品であり、それがゆえに利用者にとっては常に何がしかの違和感をもたらす。ゴミとして捨てられても土に戻っていかない存在物である異様さが心を落ち着かなくさせる。プラスティックの弁当箱にプラスティックのお箸で食事をしていて、豊かな感性をその子に期待できるだろうか。
アメリカ文明には奥行きが感じられない。あるいは陰影が感じられない。「文明」を生み出す土台にある「文化」が奥行きに浅く陰影に欠けるからであろうか。
ひとつの科学技術が圧倒的なポジションを占めるためには、国策による後押しがあるか、それともこの技術で大もうけできるとたくらむ事業意欲が後ろにあることが条件となる。事業者が厳しい事業者である以前に豊かな感性を持つ「文化人」であれば手を出さない技術もこれまでに多くあったはずである。
プラスティックという化学合成品がアメリカで花開いたのにはそれなりの理由があるはずだが、それが何なのか私には答えがまだない。
(11.07.14.篠原泰正)