原発に関して政府が「ストレステスト stress test」をやるとのニューズを聞いて、福島県の人を中心に市民がどれだけストレスがたまっているかを調べるのかと理解したが、これは私の早とちりであり、各地の原発が地震などの災害にどれだけ耐えうるかを調べるのだという。その後のニューズで、地方自治体の長が”なんで今頃?”と不思議、不思議の声を上げていることも知った。何で今頃?という疑問は政府(霞ヶ関・永田町連合)の言動の順序が違うではないかというところにあると思える:①地震の危険があるから東海の浜岡原発は全部停止、②(根拠は無いけれど)その他の原発はすべて「安全である」宣言、③(いや、やっぱり)ストレステストをやってみよう。どんな藪医者でもここまで診断があちゃこちゃすることは無いだろう程の右往左往であるから、当事者の自治体の長は怒るのはもっともながら、これはもう笑うしかない。
ごく当たり前の話であるが、もしまじめに原発をどうするかを考えるならば、次のようなステップを踏むのが常識であろう:①福島事故調査委員会による調査、②保安院を経済産業省から切り離し中立の組織にする③(事故調の報告を待たずに)新保安院の手ですでに欠陥がわかっている部分を中心に日本中の全原発施設再点検、④原発による電力生成コストがホンマのところ何ぼかまじめに算出する、⑤企業や病院など団体が有する自家発電力でどれだけ電力供給力を上乗せできるか算出する、などなど。その上で、”さあこれからどうする”という話になる。もし何が何でも原発を継続したいのであっても、国民をだますにはやはりそれなりの順序が必要で、事故調査もストレステストも算定のしなおしも、すべてやった振りして都合よく仕上げた「シャンシャン」結果を示さねばならない。人をだますにはロジカルでなければならないということ。
ひとつの文明社会の末期には社会システムの劣化が目立つようになるが、社会のシステムを構築し動かしているのはつまるところその社会の構成員たる人間であるから、人の心性と知性と感性の劣化が目立つようになってくると言ったほうが正しいであろう。その劣化の結果として現れてくるさまざまな現象に対してまじめに怒っていると疲れるばかりであり、酒飲みながら”世の中アホだらけ”とつぶやくぐらいになる。社会現象としては民衆の「無力感」の増大がそこに見られるようになる。
ストレステストで国民のストレスがさらにたまっているところに、今度は電力会社による「やらせメール」と来る。政府主催の公聴会に原発再開・推進意見がたくさん届くように督促したものという。報道によれば、これまでもこのような場ではいつも行ってきた行動だけれど、従来は口頭での依頼だったのが今回は証拠の残るメールだったのがウンのつきだったようだ。どうせイカサマやるならもう少し知恵働かせてばれないようにやってくれと言いたい。以前はともかく、今回は状況が状況だけにヤバイと判断して、やらせの実行取りやめを決定するのが「常識」と思われるが、司令部の知性が劣化しているとそのような判断も働かなくなるのだろう。あるいは原発が無くなると世の中真っ暗になるとあせりまくっているのだろうか。
私が「大崩の時代」と名づけているこのステージは世界的には1989年のベルリンの壁の崩壊から、日本では同年のバブル頂点から始まっている。ローマ帝国の末期、その文明社会がどのように崩れていったのか、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の後半を読む機会を逸したままの私なので知識が無いのだが、さぞやどたばたの連続であったろうと推測する。そのローマは崩れたが800年ほど後にはイタリアはルネサンスで「再生」し、現代では国が壊れる壊れたと言われながらなんだか楽しそうに生きている。したがって、今のわれわれの前にあるこの崩れも、国家の中枢の皆様方のどたばた劇を楽しみながら、自分のことは自分で守る覚悟だけしっかりもって生きるしかないのだろう。歴史が示すところでは、崩れ始めた文明社会が何らかの「改善」によって持ち直した例はない。
(11.07.08.篠原泰正)