今回の福島原発事故におけるひとつのプラス面は、「お上」という存在がいかに頼りなく、無責任かつごまかしに満ちたものであるかを、ようやくこの日本列島のふつうの人々に思い知らせてくれたことにある。簡単に言えばいくら「お人の良い」人でも今度ばかりは”頭に来た”はずである。
国家政府といういうものが、それが右寄りであれ左よりであれ、端(はな)から”いかさまに満ち溢れた信じるべき存在ではない”、という考えは、イタリアやスペインやフランスといったラテン系諸国の民衆には「常識」である。また、お隣の中国のように、2千年以上も中央政府とそれが直轄する地方政府の暴虐と強欲の歴史に彩られてきた国の民衆であれば、「お上」を信じることは自分の存在権を放棄することになるという経験が身にしみているから、日本の民衆の「お上信奉」は理解の外であろう。つまり言葉も出ない。あるいは大阪弁ができる中国の人なら、”アホとチャウか”ということになろう。
もっとも、この「お上信奉」の話を始めると長くなるし、ここでのテーマでもない。今回のテーマはシステムの話、より具体的にいえばその規模の話である。結論から先に言えば、この列島の住人は、上は秀才の「お上」から下は普通のピープルに至るまで、大規模のシステムを考え出す力もなければ運営管理する能力もなく、ましてやそれを経営するなんてことはあさっての課題であるということである。
例えば、情報・通信の世界でのネットワークシステムの基本あるいは基盤はすべて欧米で考え出されたものである。より正確に言えば、USAという土地にこの分野の頭脳が世界から集まり、彼らがわいわいがやがや言いながら作り出してきた、また今も作り出しているものである。その頭脳集団は例えばこの関連の米国特許の発明者の名前から推測すれば、西欧系のほかに、スラブ系、東欧系、インド系、中国系などなどで満ち溢れており、彼らが互いの多彩な文化を背景にしながら「異種混合-ハイブリッド」でもって異種のネットワークをつなぎ合わせてグローバルネットを設計構築していることになる。なお、言い足せば、残念ながらこの集団に日本系の名前はほとんど見ることができない。
企業経営というシステムにおいても、日本の大手企業が海外企業を傘下に取り込んでうまく経営している話はほとんど聞いたことがない。日本の大手会社には異種混合のシステムを経営する能力はない、と断定できる。
福島原発の事故は科学技術のシステムと事業経営のシステムの両方において、当事者がいかに大規模システムをマネージできない存在であるかを示してくれた。
このような集団では、例えばアポロ宇宙計画などという大規模システムはどんなにお金があっても逆立ちしても実現できるものではない。仮に人間を乗せて打ち上げたところで、”Houston, we have a problem.”と宇宙船から連絡を受けても、指令制御本部がプロブレムだらけで、指揮系統もぐちゃぐちゃであるから、13号は永久に地球に未帰還の運命となったであろう。
複雑なシステムを構築し運営管理する能力は言語での表現能力に密接に関係している。言語能力はお粗末であるが設計と運営管理能力は一流、という組み合わせはありえない。言い換えれば、システム設計はその仕様書の記述と表裏一体であり、その運営管理はマニュアルの記述と表裏一体という関係にある。裏表どちらかがお粗末でも成り立つ話ではない。
前にこの場で取り上げた(944と945)「原子炉施設に関する安全設計審査指針」という文書を読むと技術の文書なのか法令の文書なのか目を疑うような内容もさることながら、その記述の不明瞭性は”これでは事故がおきても当たり前”と思わざるを得ない。このレベルの頭脳では、原子炉発電などという複雑怪奇かつ危険なシステムを設計したり運営したりしてはいけない。
あるいは、仕事の関係で私はコンピュータシステム分野の日米の特許仕様書(明細書)をずいぶん読んできたが-その多くは米国特許であるが-文書の構成と記述を比べると中学生の作文と修士課程の論文ぐらいの差が感じられる。システムを言語(日本語)で表現する能力は日本の特許明細書を読む限り、限りなくゼロに近い。
また、話は飛ぶが、最近、中国が新幹線の特許をいくつもPCT出願したという報道がなされていた。JR東海の社長さんの話、”われわれの汗と涙の結晶を、云々”をこれもニューズで読んだ。その心情はわかるが、話は特許の争いにつながるであろうことであり、”汗と涙”の浪花節はここでは本来出る幕はない。話がそれたが、ここでの課題は、日本から技術貸与した新幹線技術がどこまできっちりと仕様書で明記されその授受が契約書で明記されていたかによる。はきり記述されていれば、1年半後には内容が公開される中国特許が、日本が貸与した技術の延長線上の自明のものであるか、あるいはその改良が日本の技術を土台にしてはいるが画期的なもの(新規性がある)かどうかを対象にして争うことができる。(汗と涙は考慮の対象とならない)。また、ついでに書くが、貸与した技術は中国国内に限るものであるという話は契約上の話であり特許出願とは関係ない。(アメリカに特許出願することとアメリカで事業を計画する話はひとつの土俵では論じられない。例えば、特許出願は趣味でやっただけ、といわれればそれまでである。)繰り返すが、中国に貸与した技術がどこまで明確に仕様書に書かれていたか、ポイントはそこにある。そして、大丈夫か?という思いが私には消えない。
この列島の住人は、近代西洋科学技術をうまく取り込んでそこそこのあるいは十分の文明社会(国家)を築き上げてはきたが、世界で通用した技術成果の多くは、素材(materials)、部品(parts)、コンポーネント(components)、モジュール(modules)、そしてスタンドアローン製品(stand-alone products-自動車のようにそれだけで単独で要求機能を果たせる)であり、システム、特に大規模システムは苦手とする。特に異種の目的と機能を混在させたハイブリッドシステム(原発もこの類)には弱い。
そのことは見方を変えれば特に問題でもなんでもなく、自分らに無理なことには手を出さなければいいだけの話である。問題なのは、本来苦手なのに(言語表現を含めての総合力で)”ボクチャン秀才なのだ、エライのだ、何でもできるのだ”と思い上がって危険なものに手を出し、挙句の果ては大阪の道頓堀のグリコの看板になってしまうところにある。西洋が本家の科学技術に手を染めて以来150年以上が過ぎ、多くの面で「崩れ」が目立ち始めている今、もう一度自分の力を振り返って、その取り込みも応用も改良開発も身の丈に合わせた範囲に限るべき時であろう。
(11.07.04.篠原泰正)