科学技術の発展を後ろから押している力はなんだろうか。科学あるいは技術の研究開発に没頭していれば、もっと先に、もっと深くと追求の道を突っ走る熱情が次から次へとわいてくる状況は理解できるが、報酬もなしにどこまで突き進めるかは疑わしい。生活費の心配もなく半ば「趣味的」に科学技術の道を歩み続けることができた人は古今東西そんなに多くはいなかっただろう。しかも、数学の研究なら紙と鉛筆さえあればできるのだろうが(大いなる誤解か?)たいていの科学技術の分野では、何やかや研究開発の設備が要るし材料も買わなければならない。なかなか「趣味」ではやっていけない世界のはずである。
そうなると、スポンサーの存在が気になる。大きなお金(研究開発費・設計費)をポンと出せるスポンサーは2種しかいない。国家と大手企業である。これらのスポンサーは趣味でお金を出すわけではないから、何か動機が裏にある。国家の場合は”もっと力を!”ということであろうし、企業の場合は"もっとお金を!”ということになろう。このように、近代の科学技術が驀進してきた裏には、より大きな力とより多いお金を求め続けてきた大勢力がいたことになる。
西洋世界(西欧と北米)の場合は、国家による科学技術への後押しは帝国間の競争が激しくなってきてからであろう。時代的には19世紀半ばからか。しかし、後押しはどちらかといえば、資本主義原理に基づく私企業の利益追求の方が大きかったと思われる。つまり、”もっとお金を!”と追い求める強烈なグループが常に最新の技術の後ろに控えていたと思われる。もっとも大企業と国家政府はほとんどいつの時代もどこの国でも一身同体なので後ろ盾のスポンサーの存在をはっきり区切ることはなかなかに難しい。
日本の場合は、西洋列強から開国を迫られ、強力な中央政権の確立でもって国を近代国家にまず頭で(実力ではなく)仕立て上げてきたので、そこで必要となる科学技術はほとんどすべて国家政府の強烈な指導の下に開発されてきた。「富国強兵」を実現するために、すべてが「お上」のご指導の下に実行され、近代工業技術もその中心課題であった。
この成り立ちが日本の近代工業技術の発展に二つの大きな特徴をもたらすことになった。ひとつは技術の発展の後ろには常に政府の影がちらついているという特徴であり、もうひとつは、西洋列強に負けるな、追いつけ追い越せと目の前の西洋のお手本を学びまねる姿勢が癖(習い性)になった特徴である。
例えば、実際に追いつき追い越した1985年あたりを頂上として、その後、日本の工業技術の多くは何をしていいかわからずウロウロして日をすごしてきたのではないか。「お上」のご指導の下に行う癖がついてしまっていたので、そのご指導が出てこなくなると(西洋の教科書を全部クリアしたのでお上からそれ以上出てくるわけがない)何を開発すべきかわからなくなってしまった。また、科学技術とは何かを自分の頭でトコトン考え尽くしてこなかったので手本をクリアしてしまうと呆然としてしまったのではないか。
このように、科学技術の舞台の裏には、常に”もっと力を、もっとお金を”という欲望が強いスポンサーが控えているから、その科学技術は往々にして人間として越えてはならない一線を踏み越えてしまう危険がある。そこでは、”誰よりも強い国家をつくる、儲かるなら何でも手を出す”という危ない動きに歯止めをかけるべき第一線は、その科学あるいは技術の危険性をもっとも良く理解している科学技術者に求めるしかない。”これはいかん、これをしてはいけない”という第一声はその原理や技術の中身を良く理解している人にあげてもらうしかない。
私は「倫理ethic」あるいは「倫理学・道徳ethics」という言葉は好きではないので使いたくはないのだが、一般的にいうならば、その危険な状況においては、あるいは分野においては、科学技術者としての倫理が強く求められるはずである。しかし、お手本の西洋の教科書には、多分、この「倫理」の項目はない。つまり、自分の頭で科学技術とは何か、人間とは何か、自分とは何かを考え続けるところから自分で生み出すしかない。
この日本列島の住人は開国以来必死になって西洋近代文明の学習に励み、その技術においては本家の西洋と肩を並べるまでにいたった。しかし、今回の福島原発事故を考えれば考えるほど、そこには何か大きな欠陥、あるいは伝統の価値の忘却があると思わざるを得ない。そのひとつが、ここで取り上げている科学技術者の「倫理」というテーマである。「お上」の言うとおりにやっている限り、自分の行っている事がまともなことなのかどうか、胸に手を当てて考える必要性を最初から考えることなく過ごしてきたのではないかと思えてならない。
科学技術という世界共通の文明事項を扱っていても、それを行うのは一人一人名前と顔を有する人間であるわけだが、日本の科学技術者の多くはその顔が見えない。簡単に言えば「個性」が感じられない。日本人の精神の伝統の核には「美学」がある。自分の生き方があるいは仕事が人に恥じないものであるかどうか、自分で自分を律する美学が伝統にある。その伝統は消えてしまったのだろうか。「お上」の方針とご指導の下にやっているだけだから、何も考える必要もないし、専門ではない普通の人に説明する責任もない、としているのであれば、その生き方はあまりにもお粗末ではなかろうか。
(11.06.30.篠原泰正)