農産物の生産と工業製品の生産における方式としてのモノカルチャーは、その目的を達成するために、当然のことながら「効率」(efficiency)という概念を最大に重視する。効率的につくる(生産する)には、できるだけ人手をかけないことも自明のやり方として理解される。限りなく人の手をかけないということは、出来上がりが人のぬくもりの感じられないモノになっていくということでもある。
農作物は、大昔、人類が農業文明を発明したときから、人の命を支える、ある意味で神聖な生産物であった。世界の他の地域のことは知らぬが、少なくともこの日本列島では、農作物は「生産する」という概念ではなく、「育てる」という意味合いが強くこめられていた。その作物を買う方の人にとっても、育てられた大事なものという意識が伝わっていた。私の子供のころは、食事の場である茶の間に置かれたおひつ(櫃)をまたいで通ったりしたら厳しく叱られたものだ。私と同世代の人であればみな同じしつけの元で育ってきたはずである。米の「ご飯」というものはそれほど「神聖な」モノであった。
モノカルチャーによる農作物の生産が限りなく主流になり、ビジネス感覚でいえば効率的であるこの方式以外に競争に勝てるやり方はないと考えられるようになってきてから、この農作物に対するある意味でけいけん(敬虔)な態度は作る側も買う側からも、この列島においてさえ、消えていってしまった。家畜の飼料としての農産品も人間の食料としての農産品もその区別が無くなり、極端に言えば、食料も人間の「飼料」つまりえさ(餌)の位置まで落ちていくことになった。
「カルチャー(culture 文化)」という言葉が元々は「耕す」という人間の作業から出てきている事から考えれば、ある地域の「文化」とはそこに住まう集団がみんなで農作物を育てみんなでそれを食べるという共通の場を持っているところから生まれるものであると言える。その農作物の多様性とその料理の多様な方法がひとつの地域の文化の多様性築いていることになる。したがって、単一作物しか作らず、料理の方法もわずかな種類しかありえないモノカルチャーは、単一文化、平べったい文化、陰影に乏しい文化、味の無い文化、地域の違いが無いどこを切っても同じ顔が現れる「金太郎飴文化」と言うことになる。
農産品が、本来的なモノカルチャーとまではいかないにせよ、多かれ少なかれ「工場生産型」農業でつくられてきて、産地と消費者の間が遠く離れてしまうことにより、この列島の地域文化のそれそれぞれの特性が失われていき、全国どこへ行っても似たような風景と同じような顔つきに出会うことになる。多分、「お袋の味」という言葉はもうほとんど死語に近いものとなってしまっているのではないか。
この列島において、工業に基づく商品経済が農業にまで徹底的に適用され始めたのは、私の記憶では多分1970年代に入ってからである。特に、農産品を帝国の重要な輸出品としているUSAから、農産品の「自由化」を猛烈な勢いで迫られることになったのがこの時代である。農業を工業と同じに位置づけ、その「製品」を同じ分野のものとする考えの下では、この「自由化」に抗する考え方は生まれようも無かった。同時に、広大な土地でモノカルチャー型の生産を行っているUSAに日本式の生産が「効率」の面で勝てるわけも無く、つまりは価格競争に勝てる土台はどこにも無かった。
はっきりいえるのは、農業を工業と同じ土俵で論じる考え方そのものが間違っているのであり、同じ土俵で論じる限り、関税の撤廃を求めるUSAの主張に対抗できるはずも無く(言い分が正当である)、実際の価格競争に勝てるわけも無かった。日本の経済学者と国家行政の担当者は、多分ほとんど誰もが同じ土俵に上がり、なすすべも無く言い負かされて、農業をどうするかを放棄してしまった。農業の従事者がいまや年寄りばかりという風景が生まれた最大の原因がここにある。
繰り返すと、この列島の住人は遊牧民族ではないから、その文化の根っこは「耕す」ところにある。その集団が、「耕す」ことを放棄してしまえば、その文化が平べったいものになっていってしまうのも当然ということになる。
農業という業(わざ)を、銭を限りなく増やし続けるという回転を止められない、まわし続けることで成り立っている資本主義経済の枠組みの中に組み込んでしまうと、このような結果になってしまう。もちろん、全体主義的な統制経済の中に組み込めば違う意味でのモノカルチャーとなり破綻してしまうことは歴史がすでに実証している。どちらの側に足を置いても、そこから出てくる「農業経済学」は悲惨な結論しか生み出せない。農業を「社会科学」から論じることがそもそも間違いなのだ。文化に土台を置いての精神的なところから、美学的なところから論じるべき対象である、と最近私ははっきり考えるようになった。
近代西洋文明の本質のひとつを形作っている「モノカルチャー」の話をここらで一休みして、次回からは、その本質である「オブジェクト主義」の面からあれこれ考えて見たい。その中で、農業という特殊な業が何であるのか、どうあらねばならないのかも、もう少し深く眺めることができるかもしれない。
(11.06.18.篠原泰正)