私はアレルギーには縁の無い体質なのでその苦しみを感じることはできないが、この列島で春になると実に多くの人が「花粉症」に悩まされるようになった。その花粉とは主に杉から飛んでくるものらしく、周りに杉の木一本も無い都会の中にあって、一体どこから飛んでくるのだろうか。話によれば、近郊の山々に大量に植林された杉林が発生源ということだ。
この日本列島にはモノカルチャーは無縁であった、と言いたいところだったが、杉ばかりを一山二山(ひとやまふたやま)丸ごと植えるという林業におけるモノカルチャーを実践したアホがいたようだ。杉の生長が早いので手っ取り早く換金しようと図って植えたのだろう。森というのはさまざまな樹木が共生することで成り立っているという自然のバランスを無視して、林野庁とその出先が、売れる材木作りとして杉で山を埋め尽くしてしまったらしい。しかし、植えたときと伐採できるまでのタイムラグの間に、列島の材木市場は安い輸入材に覆われてしまっていて、伐採して市場に持ってくるビジネスが成り立たなくなっていた。そのため、杉は切られることなく栄えに栄えて、毎年大量の花粉を都会に輸出するだけの存在になってしまったようだ。自然の多様性を理解しその大事さをわかっているはずの列島の住人の仕業としてはまことにお粗末な話であり、その結果大勢の人が苦しんでいるわけだが、まあ、花粉症で死ぬことは無い、と言うところなのだろう。放射性物質が撒き散らされても「命に別状なし」で片付けられるお国柄であるから、ツケは「国民」にだけまわされている一例に過ぎない。
話が頭から逸れそうになった。
モノカルチャーによる生産の特徴は大規模と低価格にある。売り上げを大きくするには農園の規模をでかくするのが必要条件であり、市場で価格競争するには単位あたりの生産原価を下げ続ける努力が必要である。生産原価を下げるにはすでに述べてきたように、製品の種類を少なくする、できれば1種類とすることが望ましく、さらにもっとも大きな要素である「人件費」をトコトン削る事になる。コーヒーが安い、砂糖が安い、ということは、大規模農園で働く人の給料がトコトン安いと言うことを意味している。安い製品の裏側には、低賃金にあえぐ農園労働者の苦悩に刻まれた顔が隠されている。
そのようなモノカルチャー製品の安さに満足しても裏側で満足できない大勢の人がいれば、このシステムは何かおかしい、そう、バランスが悪い。バランスの悪いやり方は必ずいずれ破綻することになる。なぜならば、安さを求め続けることは、いずれ自分の身にもその低賃金が回ってくることになるからである。
しかも、安さだけを農産品に求めることは、購入した品物がまさに無機質の「モノ」であり、そこに生産者が「育てた」ぬくもりを感じることが無い。そのような食品を食べてもまさに「味が無い」食事となるだけだろう。
現在、われわれがそこにどっぷりとつかっている文明社会は、安い商品をたくさん消費できる物質的「豊かさ」をそこから得られても、心の方は限りなく「貧しく」なっていく流れを示している。食品だけでなく、すべてにおいて、つくられたモノにぬくもりを感じることがなくなっている。そのぬくもりとはつくった人と買って使う人の間の交流から生まれるものであり、例えばこのモノカルチャー農産品ではそのような交流は起こりえない。
世界広しといえど、この列島の住人ほど「ものづくり」に熱心な集団はいないと、ついこの間までは言えた。その集団が、味も無くぬくもりも感じられないモノをただ単に安いというだけで買うようになってしまった。近所の八百屋さんで大根を買うのをやめてわざわざ車飛ばして郊外の大型店で買うようになった。大型店の商品はどこで誰が作ったものかもわからず、買い物においての会話も無く、大型の「自動販売機」に変わらない。モノのぬくもりも無ければ八百屋のおばちゃんとの会話も無い。
物質的豊かさを手に入れる代償に「心」をどこかに忘れてきて、しかもそのシステムのやり方は回りまわって自分の身にも降りかかってくる羽目になる。このようなバランスあるいは調和(ハーモニー)に欠けたやり方は、早晩破綻をきたすことになる。西洋文明がはじめたモノカルチャー方式をコマーシャルと値段だけに吸い寄せられて、考えることなく受け入れていてもその関係のアンバランスはもうほぼ限界に来ている。自然の多様性、文化の多様性をありのままに受け入れ、それらと共に生きる心を回復していかないと西洋世界と抱き合わせの心中になりかねない。元来繊細な心情を持つこの列島の住人がまずこのモノカルチャーのありようを考え直す時が来ている。そう私は考えている。
(11.6.16.篠原泰正)