モノカルチャーと呼ばれる単一農産品大量生産型農業方式を生み出したアングロ・アメリカンと一まとめに呼ばれている集団の「文化」は、どう見ても、ラテン系欧州組や日本列島の住民のそれと比べると底が浅い。複雑に入り組んだ陰影に乏しいシンプル性が特徴と言える。
「文化」の基盤はその言語であるが、別の角度から見れば食生活がベースであるとも言える。どのような食生活をしているか、平ったく言えば、毎日どんな食事をしているかを見れば、その集団の文化の基本がわかる。イギリス(イングランド)の食事のまずさは有名であるからここで挙げるまでもないが、アメリカの食事もすごい。昔、日本の企業に勤めていたときの経験で言えば、初めての海外出張でアメリカに出向いた会社仲間のたいていは、ほぼ三日ほどで音を上げ、飯時になるとうわごとのように”日本食、日本食”とつぶやくようになる。料理方法と味付けだけでなく野菜の種類も少なすぎるし、何よりも形がデカイばかりの大味(生での)にはたいていの出張者は白旗を上げることになる。カリフォルニアのある寿司屋の日本人マスターに聞いた話では、きゅうりなどの野菜は特別に日本人(元の移民)の農家に栽培を頼んでいるとのことであった。そうしないと、例えば、かっぱ巻きなどにカリフォルニアきゅうりを入れたら河童どころか海坊主になってしまうということだ。
この日本列島の住民から見れば、よくぞあんな食事で我慢しているなと感心してしまうけれど、アングロ・アメリカンにとっては、それが当たり前と思っているから別にどうと言うことはないのだろう。それだからこそ、モノカルチャー方式なんていう生産方式を編み出したわけだ、と理解することができる。日本人には逆立ちしても思いつかない方式である。
そのめし(飯)にうるさい列島の住民が工業化同一品大量生産(工業のモノカルチャー)方式をものにして世界のナンバーワンだツーだというところまで上り詰めたのは考えれば不思議な話ではある。しかし、振り返ってみれば、この工業のモノカルチャー方式が軌道に乗ったのは、せいぜい40年ほど前からであり、戦後の4半世紀はモノカルチャー式の大先達であるアメリカのまねをして必死にもがき続けた時代であった。
19世紀半ば、黒船に腰を抜かして途方もない勢いで西洋式を取り入れてきたけれど、その工業製品はモノカルチャーには程遠かった。列島の文化に根ざす造形的美意識と職人のわざ(技)が邪魔をして、工業製品といえどなにやら「工芸品」の趣を消すことができなかった。世界を驚かせたあのゼロ戦(海軍零式戦闘機)のスタイルを見れば、そのすべてが微妙な曲線で描かれていることが容易にわかる。翼の前縁も胴体に対して直角ではなく微妙に後退している。一方、このゼロ戦の強敵手となったアメリカ海軍のグラマンF6Fは直線をメインにしたどう見ても(日本人である私の目からは)美的センスに欠ける作品である。しかし、工場で大量に生産するにはこの直線型スタイルの方が有利であることは素人でもわかる。当時の設計者は頭では生産性を理解していただろうけれど、心はグラマン型を受け付けなかったわけだ。俺が設計する限りとてもじゃないがあんなスタイルの戦闘機は作れないというわけだ。
飛行機だけでなく軍艦もしかりで、例えば帝国海軍の駆逐艦はデストロイヤー(destroyer 駆逐艦の英語)という名称にはふさわしくない優美なスタイルを持っており、また何度も改良型を制定するものだから、造船所もそのたびに冶工具を変えねばならず大変だったろう。戦争も後半になり、何でもいいから駆逐艦をたくさんつくらねばとなって初めて大量生産向きの直線でまとめたタイプを作るようになった。このスタイルではずいぶん性能が(主に速度)落ちるだろうと危惧されたようだが、実際はそれ以前の優美なスタイルのそれと変わらなかった、という落ちまでついている。一方、アメリカはというと、もちろん、全部定規で引いたような角角の同じスタイルの駆逐艦をこれでもかというぐらいに大量生産していた。
戦後の4半世紀は、この大量生産に負けた悔しさがばねになって必死にモノカルチャーに取り組んだ時期であったことになる。それから今までこのモノカルチャー型工業製品は日本の「お家芸」と言われるぐらいにまで頂上を極めることになった。そして、多分、いや確実に、その代償として、「文化」としての美の感性を社会全体としては失ってきた。日本の家庭の食事は大量工業製品の名声の上昇に反比例し、年々貧しく(栄養価ではなく)なり、もしかしたらかのアングロ・アメリカンの水準に日々近づいているのではないかとも思われる。食品とその料理がどんどん工業製品のごとくになってきている。その食製品に満足しているということは、2千年の文化で重ねてきた「美」の感性を失ってしまっていることを現しているのだろう。
この列島の近代150年の中で、最近の40年ほどで、あんな作り方、あんな品物、とてもまねできないとブレーキをかけていた「文化」がずるずると後ろに下がって、気がつけば、アングロ・アメリカン「文化」が生み出したモノカルチャー「文明」を当たり前のように受け入れ、日々の生活までその色に染まってしまっていたことになる。
この列島住民がなぜモノカルチャーを自分のものにしてしまったのか、これは単に上に一例を挙げたような、大量工業製品の差で戦争に負けた悔しさだけでは答えにはならないだろう。
(11.06.10.篠原泰正)