東北大震災とそれに伴う福島原発(ローマ字でFukushima Daiichiと記せば世界で通用する)事故によって、この列島の住人は根本的なところで「生き延びる能力」を高めねばならないという最初の警告を受けたようなものだ。最初としたのは、これからの地球と世界で自然の力による厄災と人間社会による厄災が連続的に、そして大規模に生じてくると思われるからである。
穏やかな自然環境の下で優れた協調性を発揮して「のんびり」と暮してきたこの列島の住人も、様々な嵐に備え自分を鍛えなおしておく必要がある。生き延びるためには自分で判断する力とそれに基づいて素早く行動する力が求められる。今度の大地震・大津波で亡くなられた方が2万5千人を超えるという。残念でならないのは、素早く高台に逃げていれば助かった方も多かったのではないかと思われる点だ。また、Fukushimaの事故で疎開を強いられた人々にはそのとんでもない厄災に同情するが、これが晴天の霹靂(ヘキレキ)であったのなら、「原発は安全である」という嘘に騙されていた自分を反省する契機になったはずである。詐欺はもちろん見事に嘘をつく詐欺師にその罪があるが、一面では騙された方も隙があったとみなされることになる。
厳しい状況に次々とこの列島も見舞われると思われるのは、ひとつにはまず何よりもおおごと(大事)である世界での食糧不足がある。地球の人口はあっと言う間に70億人を超えた。この途方もない数は、仮に平等に分配されても、食い物が誰にも行き渡るかどうかかつかつの限界であろう。しかも気象異変が激しくなることによってこの問題はますますおおごとになって来ている。
もう一つのおおごとは、日本を含む先進工業諸国の人間がこの半世紀の間に石油をジャブジャブと使いすぎたので地下のタンクの底が見え初めてきたところにある。今の工業化社会が石油という存在の上に成立していることを理解すれば、石油の生産量が減ってくれば土台が崩れていくであろうことは容易にわかる話である。
さらに、気象異変の程度が激しくなって来ていることは、雨の降り方の極端化にもっともよく現れており、海洋に囲まれて比較的その極端化の影響が現れにくいこの列島も油断ができない。
さらに社会的な、つまり人工的な面で見れば、この列島は世界の2大勢力、互いに自分達が世界の中心であるとする帝国に挟まれた場所にあることを認識しておく必要がある。対峙(タイジ)する二大軍勢の間にいる平和な村落といった趣であることを承知しておかねばならない。
何やかやそんなことで、これからしばらく、「生存」という面からあれこれ考えを整理しておこうと思う。そのはじめととして、はっきりものを言う、を簡単に取り上げたい。簡単に、といったのはこの主題はこれまでにも何度も取り上げているからでもある。
この列島の住人がその長い歴史の中で身につけた生活の知恵、すなわち生き延びる知恵の一つに、「ムラ」の中でははっきりものを言わないという処世術がある。はっきりものを言うと「村八分」にされるという恐怖感があいまいな表現になって現れる。物事がうまくいかなかったとき、その責任をとらされる事から逃げられるようにはっきりものを言わない癖を身につけてきた。
そのため、「ムラ」の中ではこれで楽に世を渡って行けるのだが、一たび自分の「ムラ」の外の人と話をしなければならぬ局面に立ったときには、この処世術が裏目に出て、思いもかけぬ不利益をこうむったり、あらぬ疑いをかけられたり、アホ扱いされたりすることになる。外の人から見れば、何を言っているのかよくわからない人とは付き合いかねる、となるのは当然のところであろう。日本人というこの列島の住人の大半を占める存在が世界の七不思議に数えられるのもこのためである。
さらに、この処世術は、明かに、自分の属する「ムラ」がいつまでも続く事を前提にしてのものであり、「ムラ」自体が消えてしまえば何の効力も発揮されない。ムラとして今確たる存在を示している国家官庁、地方政府、大手企業、大学、学会、財団、協会などが明日もあさっても続く保証はもうどこにもない。気象異変と石油の枯渇と70億という人口と得意とする工業での中国という競争相手の出現と列島の食糧自給率40%というノーテンキを絵に書いたような状況と1千兆円という国家借金とによって、明日はどうなるかわからない事態が次々にこれから現れてくる。
その時、「ムラ」の中で身につけたはっきり物言わぬままでは、その人の生存はおぼつかない。「考える」ことと明確にその考えを「述べる」事は別々の作業ではない。考えをできるだけはっきり表現する作業を行うことで考えがさらに明確になっていくというそういう相互関係にある。従って、はっきりものを言わないということは考えも明確にならない、簡単に言えば考える力が育たないことになる。
話しは少し飛ぶが、”日本語はあいまいですから”と逃げをうつ人がいる。こんなおかしな話はない。日本語という言語が一人歩きをするわけがなく、言語は道具としてその使い手に帰属している。道具が未開であればはっきりと物言うための道具として使えないということがありえるかも知れないが、日本語は高度に発達した言語であり、あいまいな表現は道具としての言語にあるのではなく使うその人の頭と心意気にそのもと(因)がある。
帰属している「ムラ」が崩れ落ちて裸で一人ほうり出されたとき、状況をはっきりと説明し、自分の考えをはっきりと主張することができなければ、その人の生存は危うい。
はっきりものを言うためには訓練が必要である:
①表現の道具としての日本語を組み立てる力
②自分の頭で考え、自分で物事を判断する力
③自分の考えをはっきりと言う勇気
「原子力村」とか「特許村」とかこの列島に溢れている「何とか村」の中で「楽」に生きてきた人たちは、いったんその何とか村が消えてしまったらどうするのだろうか。腕に技能を持つ職人さんならもの言わずでも食べていけるけれど、はっきりと表現する能力に欠けるインテリ(表現がおぼつかないインテリという存在は本来的にはありえない)というのはムラという防波堤がなくなれば一人で生きていくのは無理なのではなかろうか。
(11.5.14.篠原泰正)