指針の重みを自ら否定する
前回(944)で挙げた文章に続いて以下の記述がある。(II.本指針の位置付けと適用範囲の2段目)
”安全審査においては、
当該原子炉施設の安全設計が、
少なくとも本指針の定める要求を十分に満足していることを
確認する必要がある。”
前に取り上げた冒頭の文章で”本指針は・・・設計の妥当性について判断する際の基礎を示すことを目的として定めたものである。”と述べられている。つまり、そのまま読めば、”この指針は「基礎」を示すだけであり後は君達の責任でよろしくやってくれ”と述べているように取れる。それに続いて、この文章がでてくる。”少なくとも”の意味はなかなかのクセモノである。私の単純な「常識」では、この「指針」は安全審査をする者より一段と高いところからの命令書、あるいは指導書であるから、”この指針どおりに確実に審査をせよ”と述べればよいだけの話しである。何をゴチャゴチャいっているのかと不思議に思いつつ、次に続く文章に出会う。
”ただし、
安全設計の一部が
本指針に適合しない場合があっても、
それが技術的な改良、進歩等を反映したものであって、
本指針を満足した場合と同様
又はそれを上回る安全性が確保しうると判断される場合は、
これを排除するものではない。”
何を述べようとしているのかわかりますか?
”(審査対象の)設計がこの指針を外れていても、(あなたが)この設計で大丈夫、と判断するなら、この指針は無視していいですよ”、と宣言しているわけだ。つまり、指針は出すけれど、審査の判断はあなたに任せると述べているわけだから、そのまま受け取れば、無視していい「指針」なんぞはまったく存在意味がないことになる。なぜこのような奇妙な自分で自分の価値をおとしめる表現がでてくるのか。
話しは、カンタンで、何かまずいことが生じたとき(例えば今回の福島事故のような)、”指針は出したけれど、実際に審査をしたのは私ではないからアイアム・ノット・ギルティ”と言えるように伏線が張られているわけだ。
一方、審査した者は、”アタシャ、指針どおりに審査したので、アイアム・ノット・ギルティ”と逃げることができる。実際に設計した者は、”安全審査を通ってハンコもらっているから、アイアム・ノット・ギルティ”と主張できる。つまり、誰も傷つくものなく、八方丸く収まるように、それだけの深い配慮が上にコピーした文章には含まれていることになる。脱帽。
次に、今では誰もが知っているところだが、「予備」の電源が「不備」であったというあまりにも単純なミスで今回の大騒ぎを引き起こしたところに関して、この「指針」は何を指導しているのかだけを見て、この文書の話題を終えようと思う。
指針27.電源喪失に対する設計上の考慮
”原子炉施設は、
短時間の全交流動力電源喪失に対して、
原子炉を安全に停止し、
停止後の冷却を確保できる設計であること。”
つまり、外部(電力網)からの電源がこなくなったとき(停電)、原子炉を停め、その後冷却できる設計になっていなければならない、と指導されている。ここでの問題箇所は、停電が「短時間」しか続かないと設定されているところにある。電力網回復への絶対的信頼の現われか?
この文書は2部構成になっていて、各指針の「解説」が付されている。
指針27の解説
”長期間にわたる全交流動力電源喪失は、
送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。”
どこからこの「期待」がでてきたのか不思議であるが、それはともかく、福島の事故は指針どおりの設計であったがために生じたと言える。次の段落でさらに:
”非常用交流電源設備の信頼度が、
系統構成又は
運用(常に稼動状態にしておくことなど)により、
十分高い場合においては、
設計上
全交流動力電源喪失を
想定しなくてもよい。”
原子炉そのものは電源が切れた場合は「止める」しか設計上の打つ手はなく、また、電気がこないときに「自力」で冷却する方法はもっていないので、設計上「考慮する」もしないも関係ない。
予備電源がイカレタときにどうする、という「指針」はこのドキュメントのどこにも記されていない。
あいまい表現の材料としてこの文書を取り上げたが、問題はそれ以上のところに、指針の構成そのものにあったことになる。指針を出す側も安全性を審査する側も元の設計をした側も、誰もが「危険物取り扱い」資格に欠けていたなという感想だけが残る。
(11.5.6.篠原泰正)