この列島に何万、何十万と存在する「ムラ」の中でも霞ヶ関を頂点として形成されているエリートムラは厄介な存在であり、その特色の一つはあいまいな表現で満たされた文書に現れている。この「あいまい」性は理由があってなされているので、”明快な誰にでもわかる日本語で書きましょう”といくら声を掛けてもまったく無視される。馬耳東風、あるいは蛙の面に小便ということになる。つまり、ムラが壊れない限り、そこから明快な文書がでてくることはまったく期待できない。このムラには、例えば、今回の福島事故で多くの人の注目を集めた「原子力村 atomic village」があり、また「司法ムラ」や「医学・医療ムラ」なども名高い。それらの中に「特許ムラ」というのもある。全てに共通するのは、部外者のシロウトにとっては恐れ入るしかない特殊表現に満ち満ちた言語の流通である。
私の机の上にもう何週間も一つの文書が置かれている。読み終わったので破り捨てようかと思うが、なかなか示唆に富んでいるので幾つか解剖してからにする。
表題は「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」とあり、原子力委員会が平成2年(1990年)8月30日に発行したものである。小さく、平成13年(2001年)3月29日一部改訂とあるから、私の手許のこれはその改訂版であろう。(*軽水型原子炉とは福島の原発がそれである)
発行責任者が不明
今回の福島事故で知ったのだが、原子力安全委員会というのは内閣府に所属しているのであるから、「内閣府」というタイトルを被せるべきである。ただ原子力安全委員会というだけではどこの馬の骨かもわからない。
さらに、委員会というからには委員と委員長がいるはずだか、どこを探しても人名が見当たらない。欧米では責任者の名前とサインが記されていない公文書なんぞは存在しないから、これだけでも不思議の文書である。委員長以下皆さんは極めて控えめな人ばかりなので名前を出すことを嫌ったのであろう。
誰に指針を与えるのか相手が不明
I.まえがき
”本指針は、
発電用軽水型原子炉(以下「軽水炉」という。)の設置許可申請(変更許可申請を含む。以下同じ。)に係る安全審査において、
安全性確保の観点から
設計の妥当性について判断する際の
基礎を示すことを目的として定めたものである。”
つまり、原子力発電施設を作りたいと電力会社から許可願いが出てきたときに、誰かがその安全性を審査をすることになっている。これはその審査を担当する者に対しての指針である、と読み取るしかないが、誰が審査をするのかは最後まで読んでも不明である。(今回の福島事故で得た私の知識によれば、審査の担当者は多分、経済産業省原子力安全・保安院であろう。ともかく、誰がどのような権限でもって誰に指針を出すのかを明記しない文書はもうこの冒頭から欠陥品である。
チェルノブイリ事故は考慮されていない (*印は篠原が付したもの)
”・・・安全設計審査指針は、最初は昭和45年(*1970年)4月に、当時の原子力委員会が定めたものであり、その後昭和52年(*1977年)6月に、同じく当時の原子力委員会がこれを全面的に見直して改訂を行った。昭和52年の安全設計審査指針の改定以来、10年以上が経過し、この間軽水炉の技術の改良および進歩には著しいものがあった。また、この間に、米国で発生したTMI事故(*Three Mile Island)等、国内外に生じた様々な事象から得られた教訓も含めて、軽水炉に関する経験の蓄積も大きいものがあった。これらを踏まえ、従来の指針について全面的見直しを行い、指針の内容の一層の明確化および体系化を図ったものである。”
スリーマイル島の事故は1979年であり、世界を震えあがらせたチェルノブイリ(Chernobyl)事故は1986年であるから、いずれもこの改訂指針が出される前である。あのチェルノブイリが、”国内外に生じた様々な*「事象」”としてごくごく軽く、言うならば一顧だにされていないのはまことに不思議の世界であり、しかも、「事象」というあたかも自然現象の如くの取り扱いは奇妙そのものである。ホンマに「安全」について真剣に考えているのかね、と疑問を招きかねない背景説明のお粗末。
II.本指針の位置付けと適用範囲
”本指針は、
今日までの軽水炉に関する経験と最新の技術的知見に基づき、
軽水炉の設置許可申請に係る安全審査に当たって
確認すべき安全設計の基本方針について定めたものであって、
原子炉施設の一般的な設計基準を指向したものではない。”
この文章の骨組みは、”本指針は基本方針について定めたものである。”となる。つまり、”指針は方針である”という奇妙な文章となる。「(基本)方針」とは何事かをなす場合に、それをなぜ、どこに重点を置いて取り組むかなどを宣言したものであり、ここでの背景から言えば二者がその方針を出す主体でありうる。一人は原子炉を設計する側であり、もう一人はその設計を審査する側にある。ここでは、審査を担当する者に対して、”ここに重点を置いてしっかり安全性を確保するように”との「指針」を与えているわけで自ら審査という行動を担当する者ではない。その指針に基づいて審査員が「審査方針」を作成することになる。従って、「指針」が「方針」であるというアホな話はありえない。頭がロジカルに働かないのかねえ、と嘆きたくなる。
長くなるので続きは次回
(11.5.4.篠原泰正)