3.11の大津波でもっとも痛ましい出来事は小学生など子供の犠牲が多くでたことにある。明治においても昭和においても大津波に襲われた生々しい経験がある三陸地方であるのに、地震のあと学校から逃げるのが遅れたために流されてしまった子供がたくさんいたとの報道には残念無念の思いが消えない。何度も津波に襲われた郷土の歴史を学んでいれば先生も生徒ももう少し対応ができたのではないかと残念でならない。
今、小学校と中学校でどのような学習が行われているのか、かすかな知識も私は持たないが、郷土の自然、社会、歴史を総合的に学ぶ科目があるようには見えない。この列島の教育システムでは、今や、中央政府からの「ご指導」が全国津津浦浦にまで行き渡っており、どこにおいても、多分、金太郎飴の如く一律の科目と教え方が行われていると想像できる。その結果、子供たちは自分の郷土のことを何も知らないで育ち、例えば危険な津波地域に生活している意識もなければ郷土への愛着もないままに成人になっていく。
世界のどの国においても中央政府という存在は「地方」の独自性を好まない。そのもっとも過激な地方の「独立」何ぞはそれこそまったく認める余地を持たない。スペインにおけるバスクの独立やカタロニアの独立が100年、200年の長きに渡って中央(マドリド)政府から弾圧されてきたことはそのほんの一例に過ぎない。
この列島においても、明治維新以来、中央政府は地方自治をいささかも認めない方針を通してきた。なるほど「地方自治体」という名称はあるが、実態は中央政府の出先機関に過ぎない。独立性を持った地方は中央の言うことを素直に聞かないから嫌われ、嫌がらせを受け、シカトされる運命にある。地方としては、中央政府の「援助」を受けておとなしく言いなりで「交際」(これもエンコーの一つ?)していれば何かとお土産にもありつけるわけだ。そのような中央からの「銭の鎖」での締め付けの下で「金太郎飴」教育もある。
地方の過疎化が問題視されて久しい。この問題は何の根本的対策もないまま、地方という地方で若者がいなくなっていく。この現象は都会にあこがれる若者、3Kを嫌う若者、仕事の場が少ない地場産業の衰退などなど、問題は主に「地方」にありとされているが、本当にそうだろうか。
中央というのは、自分達の命令に従わない存在を認めないだけでなく、自分達も地方も同じように栄えるのは気に食わないという感情も持っている。下々がデカイ顔をするのは気に障る。地方の若者が都会にでてきて最下層の兵士となるのは当然とみなされている。このように見てくると、地方の過疎化は工業化文明社会の社会現象のように見えて、実は「国策」でもあると理解できる。お金も学術も何もかも1極集中の国策の結果と言える。
地方が中央との「エンコー」に頼らず自力をつけるためには、子供達が自分の郷土に誇りを持つ教育がその土台に必要である。理科の時間に郷土の自然を学び、社会の時間に郷土の産業を学び、農業・漁業を実習体験し、図工の時間に郷土の民芸品に接し、自分達でも作り、歴史の時間に縄文の昔からの華やかな歴史を学ぶ。このような総合的なプログラムがあれば、都会に出て行くのではなく、”俺も私もこの郷里でがんばろう”とする若者が増えるはずである。自分の生まれた土地のことを何も知らなければ愛着が生まれてくるはずもない。
そして、そのような中から、自分の村を、町をどうすればいいかを「自分の頭」で考える若者も増えてくる。(注:他人の頭で考えるということは全て「お上」にお任せの羊になるということである。)そうすれば、津波がいつかは来る、という前提の下に自分達の町はどうあらねばならないかを自分達で考えることができるようになっていく。中央政府から請け負って「美しい絵」を書くだけの大手XXコンサルタント会社などの言いなりになることもなくなる。
地方の事は地方に任せる。そこからしか震災の本当の復興はありえない。この復興とは、瓦礫を片付けその上にまたコンクリの堤防や建物を建てるのではなく、精神の復興、2千年の歴史をもつ地方地方の精神のルネサンスであらねばならない。その土台には、自分たちの地域はどういう存在なのかを様々な面から眺め、体験する郷土総合学習プログラムが組まれることが必要であろう。復興とは、中央政府からの援助金に頼る「エンコー」ではなく、中央が「お上」であるとするその国策に抗するものであらねばならない。
(11.4.27.篠原泰正)