民営の企業においては、当り前のことだが、常にコスト意識が求められる。何事かをなした結果(例えば商品の売上額)が大きくても、それを実行する際にかかった経費がその結果を上回れば赤字になるから、そのような事業は採用されない。あるいは行なっても先の見込み(改善の余地)がなければ撤退するしかない。
電力を売る事業はその電力の使用者から使用料金を得て成り立つものであるから、電力を作るためにかかった経費が使用者から回収した料金を上回ってしまえば赤字であり、それが何年も続くようであれば倒産ということになる。
電力生成の経費をできるだけ抑えようとすれば、もっとも手っ取り早いのは、安い(つまり品質が悪い)石炭を買ってきてそれを燃やすやり方であろう。しかし、この場合、石炭燃焼に伴って生物(人間を含む)に悪い影響を与える物質が大量に大気の中に吐き出される(つまり大気の中に有害なゴミを捨てる)ので多くの国では厳しく規制あるいは禁止されている。規制がゆるい国、例えば中国では、この安上がり電力作成方式がもっとも一般的であり、その安い電力が現在の「高度成長」を支えている。
石炭火力発電に伴う有害物質の排出規制をクリアするためには、燃焼から排出に至る途中で有害物質を浄化する装置が必要となり、これを付け加えると、この安い電力生成方式が途端に高いものになってしまう。
これまで、原子力発電を推進するうたい文句には「安い」方式であることが強調されていた。なるほど使用する燃料(ほとんどがウラン)の量は極めて少なくて済み、燃料代から見れば確かに安い。しかし、核分裂というキケンな方式を採用しているから、その設備は念入りに作らねばならず、その設備投資は大変な額であろう。また運営も大変であるから、そのためのランニングコストもなかなかのものであろう。さらに、見過ごせない経費、もっとも隠されている経費は、使用済み燃料の「墓場」の建設とその維持費にある。食い物(ウラン)は安く手に入るが、食ったあとの「ウンチ」の処理に莫大なコストがかかる。食材は安いけれどそれを料理する設備は大仕掛けであり、しかも食べたあとの便所は超豪華な建屋にしなければならない。何しろこれまでの人類の文明時間(長く見積もってせいぜい1万年)よりも長い期間にわたってこれから「安全」に保管しておかねばならないから純金張りのトイレどころの騒ぎ(値段)ではない。
私は、今回の福島事故で一夜漬けで勉強しただけの素人であるから、発電の設備・運営やこの廃棄物処理にどれぐらいのお金がかかるのか具体的数字を知らないのだが、ビジネスの世界で何十年か過ごしてきた経験から判断すれば、どう見ても売上、すなわち「電気代」に見合うような額ではない。しかも、今回のような事故を引き起こせば、その後始末の費用は天文学的な額にのぼる。電力会社が「損害保険」に入っていたのかどうか知らないが、私が保険屋であれば、このような保険は受付ないであろう。毎年入ってくる保険料金に較べれば、事故の時に払うべき額があまりにも大きすぎて、保険会社として共倒れになる計算がはっきりする。さらにお金を貸すのが商売の銀行はどうだろうか。いくら貸し付け利子を高くしておいても、今回のような事故が起きる可能性がある限り(世界中の原発でその可能性がある)貸した金が戻ってこない危険性が極めて高いと判断するだろう。
”原子力発電によってあなたの元に安い電気を届けます”といううたい文句に惹かれていた利用者も、国家が設備建設に伴う補助金を支払ってきたわけだから、料金の請求書には記載されていない金額が自分の税金から差し引かれていたことに気がつく。しかも今回の事故では、電力会社単独では尻拭いできないから、当然国家が後始末に乗り出すことになり、その分の税金も電気料金に(間接的に)含まれてくることになる。安い電気代どころの話ではない、と気がつくことになるだろう。
つまり、普通のビジネス感覚から考えると、どう計算しても原子力による発電という方式はビジネスに合わない。つまり私が経営者ならこの事業提案は却下するしかない。仮に強行しようとしても、銀行は融資を渋るであろうし、保険会社は受け付けてくれないだろう。実行不能事業である。
このように見てくると、これまでも原子力発電を熱心に推し進めて来て、今回のような事故の後でもまだその「情熱」が消えない人々がたくさんいることが私には不思議でならない。その熱情はどこから出てくるのだろうか。原子力を信奉する一種の新興宗教の類の情熱なのだろうか。そうであれば、ビジネス的に割が合わないなんて話しは関係ないから納得できる。それとも、原子力が好きでたまらないという「マニアチック」な情熱ゆえなのだろうか。この場合も、何とかマニアの情熱はその対象物に無縁の人には理解できないから、ロジカルな答えが出てこなくて当然ということになる。あるいは、”原子力発電をたくさん持つことが国力のかなめ(要)である”といった国粋的発揚がそこにはあるのだろうか。あるいは、”事故が起きてもその後始末はどうせ物言わぬおとなしい国民に払わせればいいのだから”、とズボラを決め込んでいるだけなのだろうか。あるいは、”万物の長たる人間様が、核分裂ぐらいの技術をマネージできなくてどうする”、と科学・技術への飽くなき信仰(盲信)が土台にある情熱のゆえなのだろうか。
人間社会というのはさまざまな不思議に満ち溢れているが、一部の人が、あるいは相当数の人が持つこの原子力発電への情熱というのも私には”不思議、不思議”の一つであり、限られた理解力の枠を超える。
(11.4.25.篠原泰正)