福島原発の崩壊は放射能汚染に直接絡んでいるだけに私を含む日本国民にとって、さらには世界の人々にとって大きな大きな関心事となっている。地震と津波によって冷却システムが壊れたことが発表されて以来3週間が経ったが、その間、何が一体どうなっているのか、報道向け会見の数と種類は多々あれど誰もが五里も十里も霧の中を歩いているような思いがしている。事態の説明があいまいなために霧の中から抜け出せない。なぜあいまいな表現になるのか、その要因を分析しておくのも何ほどかの意味があるだろう。
(1)国民に知らせる必要はない
霞ヶ関朝廷のエリートにとって、自分達が行っている事を国民に知らせる必要はない、という思いは明治維新以来変る事のない不変の認識であると観察できる。”国家の経営に関することは俺達エリートのみがなしうることであり、(アホな)国民にいちいち知らせる必要はないし知らせたところで豚に真珠であろう”という態度がいたるところに現れている。基本姿勢において国民に知らせる必要はないと考えているのだから、発表を強制されてもその表現があいまいになるのは当然である。
(2)事態収拾の基本方針がない
最終的に事態をどう収めるのか、内閣、経済産業省、当事者の東電でまとめた基本方針が存在しないので(しないように見える)、発表は場当たり式の、つまり出てくる傷口にその都度赤チン塗って包帯を巻くだけだから、明確な説明をたとえしようと思ってもできない。
(3)出来事に対して素人(しろうと)である
発表の説明を聞いていると、どう見てもこの人たちはこの分野に関してしろうとであるなという印象が強い。例えば、検知した放射能値1千万倍事件があった。訂正された数値は二桁低いものである。ビジネスの世界での長年の経験から言えば、自分の担当する分野で数値の桁を二つも取り違えるなんてことは想像もできない。事業計画や法務を担当しているものが相手企業の売り上げ額をゼロ二つ取り違えるなんてこと、設計技術者が仕様書の性能を桁二つ大きく書き間違えるなんて事はまったく考えられない。プロであれば示された数値が異常であることは見た瞬間わかるはずである。発表までに何人もの人がチェックし協議したであろうに、放射線量に関する基本知識がないためにデータの異常をチェックできなかったと推測せざるを得ない。当該の分野にしろうとであれば説明があいまいなのは当然である。
(4)失敗は隠したい
われわれ普通人と異なり、エリートという種族は失敗を極度に恐れる性行の持ち主である。世界を揺るがす「大失敗」をできるだけ小さく見せるために根拠不明の”ダイジョウブ、ダイジョウブ”でその場をしのぐことになる。
(5)責任を取りたくない
この事故はわが部門の責任です、わが社の責任ですとは言いたくないから事をできるだけぼやかすことになる。また、やむを得ず「本当の」事を言わざる破目になっても、”XXであると聞いております”などという自分は当事者ではございませんスタイルの発言となる。
(6)役割がはっきりしない
原子力安全・保安院なる存在を今回の事件で私は初めて知ったが、なんとこの部隊は経済産業省の中にあるという。経済産業省は紛れもなく原発推進の親玉であるから、同じ組織の中に推進と安全監督という「マッチとポンプ」が同居しているようなものだ。従って、本家への強い配慮があるから、保安院とは火付け盗賊検めの鬼平の部隊なのか何なのか、当然説明もゴニョゴニョしたものになるしかない。
(7)異常事態への基本訓練ができていない
生じた事実を迅速かつ正確に把握する-その原因を急ぎ究明する-その解析に基づいて必要な対策を施す、という基本サイクルの訓練を受けていないから、説明もそれらがごちゃ混ぜになって、結果として何がどうなりどうするのかを受け手(聞き手)が理解できない。
(8)難しい話をわかりやすく説明する能力がない
テレビの解説に借り出されてくるこの分野の専門の学者先生のほとんどが、難しい話をどれだけわかりやすく述べるかの訓練ができていない。欧米の大学教授のように自分の研究に対する支援を自分で得てくるということも必要がないためでもあろう。自分の研究を素人にわかりやすく説明できなければ研究生活も打ち止めになるなんて苛酷な経験をしていないから、どのようにしゃべればいいのかもわかっていないように見える。欧米の企業における研究者・エンジニアで自分のやっていることをわかりやすく経営陣(社外重役を含む)に説明できなければ首を覚悟せねばならない。
(9)”大丈夫”の根拠をデータで示さない
観測・検知した数値を示しても、その数値が”人体にほとんど影響しない”とか、”直ちに影響するものではない”とか言われても、何に基づいてそのような評価になるのか根拠が示されないので、聞く人には”ホンマカイナ”と疑心が生まれる。根拠が示されないことに加えて、”ほとんど”とか”極めて”とか”念のために”とか形容詞の類が多すぎる。データで語る訓練がなされていない。
(10)映像による説明補完が少なすぎる
テレビやインターネットで映像の時代となっているのに、映像がほとんど提供されない。例えばメキシコ湾でのBPによる石油漏れの場合は深海3000メートルの海底から吹き上がる油の映像が24時間インターネットで配信されていた。映像を補助材料としてできるだけ状況を理解してもらうという配慮はまったく感じられない。
(11)事実の把握がお粗末過ぎる
状況がどうなっているのか、使用済み燃料プールに水が入っているのか干上がっているのか、偵察がお粗末なために、発表も推測の域を出ないままで過ぎていくため、結果として聞き手にはあいまいな印象しか残らない。
(12)日本語による表現の訓練ができていない
日本語は構造的でないため、たしかに、事実を客観的に述べるには難しい言語ではあるが、その弱点を承知したうえで普段から明確に表現することを心がけていれば、伝達の道具として充分に利用できる。意識して訓練していないと、今回のような大事件の説明には道具として役にたたないことになる。
(13)秘密クラブ
海外のメディア(Bloomberg)が報じているところによれば、世界の原子力界では秘密の事項が多いとの事である。推測するに、世界でも原子力に関するキーの情報は高級秘密クラブの独占であり、その一員である日本の原子力クラブもまた様々な秘密事項の規制に縛られているのかも知れない。説明があいまいになる一因と言えるだろう。
(14)科学と技術に弱いマスメディア
政府の発表と受け取り手(読者、視聴者)の間にある説明仲介者であるべき日本のマスメディアは昔から科学と技術に弱い。欧米のマスメディアと比べると科学記者があまりにも少ないように見上けられる。結果として、政府発表を噛み砕くことも批判することもできず、単に発表をコピーするだけの「官報」の役割しか果たせない。科学に弱いアナウンサーやコメンテータとわかりやすく説明できない学者の組み合わせによる解説番組は、聞くだけに見るだけにイライラがつのる結果になってしまう。
(15)修羅場が怖い(4.4追記)
1185年の鎌倉幕府の創設以来650年に渡る武門による国に経営が終ったあと(元禄以降の200年は差し引いた方がいいかもしれぬ)ここまでの近代150年においてこの列島では武門筋のエリートはほとんど現れず、大方は朝廷の公卿風のエリートで占められてきた。彼らの特徴の一つは修羅場に弱いことである。修羅場が怖いとそこから逃げ出したくなる。つまり現実から目をそむけ、”こうあって欲しい”という願望を現実と見たがる。最悪の場合を考えたくないので希望的観測が発表のベースになる。日々、現実が悪化していくとやむを得ず少しずつその「希望」を取り下げていくことになるので表現があいまいになるのは当然のところと言えよう。
(16)国民がパニックになるのを防ぐ(4.5追記)
本当の事を発表すると国民がパニックを起こすといけないから発表は控える(隠す)、という姿勢は公式に認められることはないけれど、エリート衆の心の中には潜んでいると思われる。難しいことは自分達エリートに任せておきなさい、あんたら知恵の薄い国民諸君はすぐにパニクルから、というわけだ。ところが、彼らが考えるほどにこの列島の住民はアホではなく、社会的成熟度(オトナ)においてはむしろエリート諸君よりも高いと思える。物凄い事実データを知らされてパニックになるなら、それは住民一人一人の責任でありエリート諸君の責任ではない。しかし、なにやら保護者めいて事実を隠す心情は、今回のようなスゴイ事件ではいつもの何倍も強く働いているだろう。
この列島の住民は税を納めそこで生活しているのだから何が生じているのか知る権利を有している。特に今回のように、強制的に疎開を命ぜられている福島地方の放射能難民の人たちには、何がどうなっているのかはっきり知る権利がある。ところが、上に大雑把に述べたように、知らせたくない、隠したい、はっきり知らせる能力がない、などなどの要因が絡み合わさっての事だから、この「あいまい表現」の事態は改善される見通しはない。第1原発の放射能がすっかりなくなり更地になる20年か30年後でも、もしかしたら、このあいまい表現は放射能の残留よりも強く留まったままなのかとも思える。
(11.04.02.篠原泰正)