福島原発の事故あるいは人災は「コンビーニエンス(convenience)」に慣れ過ぎていたわれわれへの痛烈な一撃であった。
高度な科学・技術に基づく文明社会の姿の一つは、便利さ(利便性)を追い求め続ける人々の心の有り様に現れている。都合がよい、便利である、快適であるを求め続けてきたわれわれに福島原発は冷や水をぶっ掛けてくれた。われわれが求め続け、それがそこにあることが当り前と考えるコンビーニエンスの多くは「電力」がもたらしている。反対面から言えば、電気がなくなれば、手にしたはずのコンビーニエンスの多くは吹っ飛んでしまう。
人々が”もっとコンビニ”と叫んでいる需要に応えて、国家と電力事業会社が一体となって”ジャブジャブつかえる電気”の提供に邁進してきた。その結果、気がつけば、国の電力の3割が原子力で供給されていた。私も含めてほとんどの人は、自分が日々つかっている電気がどこから来るのかまったく気にもせず、毎日のコンビニ暮らしにノー天気に溺れていたことになる。そう見れば、3月11日の地震に始まる福島原発の事故は、霞ヶ関やその隣の内幸町の不手際もさることながら、元をただせばわれわれが招いたようなものである。
われわれこの列島の住民は世界でただ一人原子爆弾で殺され苦しめられた経験を持つ集団である。原子力の怖さを頭ではなく皮膚感覚で知る唯一の集団のはずである。その集団がコンビニに溺れている内に、気がつけばいつの間にか世界有数の原子力発電を持っていた。こんな有様では、核兵器廃絶をいくら叫んでも、世界の誰もがまともに受け取ってくれるはずもない。核分裂(nuclear fision)のすさまじいエネルギーを兵器に利用することと発電に利用することの差はほとんどない。本質的に同じである。
世界有数の地震列島であるこの島々のいたるところに原発を建てておきながらいくら核兵器の危険を叫んでも、”あんた、表の顔と裏の顔を持つのか?”と世界の人々から疑われても仕方がない。”核兵器はいけないが原発はOK”なんて都合の良さ(convenient)はありえない。
頭では地震の危険を承知していても、日々の自分の都合の良さ、便利な暮らしに溺れてキケンな原発の存在を認めてきたわけだ。そして、ある日、その手にした利便性、快適性、見た目の豊かさの見返りに、ヒロシマ・ナガサキ以来66年目にもう一度放射能による大気、土壌、海洋の汚染を経験することになった。それだけでなく、福島原発の近隣に暮らす人々は「放射能疎開」をも強いられることになり、難民生活がいつまで続くのか、はたまた、いつかは自分の家に帰ることができるのかどうかも定かではない不条理な事態に苦しめられている。
コンビーニエンスの代償はあまりにも大きい。地震列島の上に原発を建てまくるなんて、世界のまともな人から見れば”アホトチャウカ”と思われていることだろう。それほどまでして快適な生活を求めたいのか、それほどまでして経済を成長さえたいのか、と思われるだろう。こればかりは、”何しろわれわれガラパゴス・ジャポニカの住民は世界の中で独自の進化を遂げた珍種デスカラ”なんて説明も通らないだろう。
原子力発電が電力の3割であるから、私も3割の節電を心がけようと腹を決めたい。故郷を追われたり、放射能水道の水を飲むぐらいなら、3割の節電による「不便」を我慢することぐらいどうと言う事ない。クーラー無しで夏の暑さを我慢する方が放射能に怯える生活よりはましである。
(11.3.31.篠原泰正)