日本語は、多くの場合、主語抜きで表現(書く、話す)できるので事実を正確に伝える上での障害になる、と言われている。そのとおりなのだが、私の観測では、例えば、政府機関の発表においてもビジネスでのEメールにおいても、目的語が抜け落ちている表現が多くあり、そのことがあいまい表現をもたらしており、このことの方が主語抜きよりも大きい。
言語で表現する(書く、話す)時、何を述べるのかの分野は大雑把に分けると3分野ある:
(1)主体の属性を定義する;
例えば、”原子力発電(主体)は極めて危険な発電方式である”と述べると原発はキケンと定義していることになる。ついでに言えば、日本人は「ムラ」の中で角が立つことを怖れる意識が強いのでできるだけ「言い切る」ことを避けようとして、”危険であると思われます”とか、”危険であると(私は)思います”というような表現が多くなる。なお、さらについでに言えば、まちがっているかも知れないが私の理解では、英語で表現するとき、この「思います”を頭の中で直訳して”I think xxxx"と表現すると、これは断言を避ける方には働かず、むしろ”俺は絶対そう考えている(そうとらえている、そう見ている)”、とむしろ強く宣言する方に受け止められることになる。
(2)状況、状態、理由を述べる:
上記のように、”原発はアブナイ”と定義すれば、何ゆえそのように定義するのかその理由を述べておかねばならない。その理由あるいは定義づけの根拠の中には、過去に生じた事故(現象)を説明する場合もあれば、原子力発電の原理と機構を事実として説明する場合もある。
”(原子力発電は)原子核を分裂させることで生じる熱でもって水を沸騰させその蒸気でタービンを回して電気を起こす”。これは発電の仕組みの説明となり、”(安全な運転のためには)燃料から発生する厖大な熱を冷やす装置が不可欠である”、”その冷却装置が破損すると燃料の温度が限界点を超えて放射性物質を外に放出することになる”、だから”危険である”、というように構成や作用を述べてキケンであるという理由を述べることになる。
この場合、他者に理解してもらうためには述べる順序が重要であり、原理からその応用、(構成)大きな枠から細部へ、(作用・機能)作動する順番に従って、(時間)古いことから新しいことへ、など原則とも言える並べ方がある。今回の「福島人災」において、マスメディアが伝える政府発表やら解説やらがあいまいであるとして、多くの人がいらだっている原因の一つに、発表者がこのように順番で述べるという訓練を受けておらず、従ってその意識もないことを挙げることができるだろう。
さらに、主体の属性を定義するのか状況を述べるのかを意識していないと、受け手はますます混乱することになる。
”太陽「は」東からのぼり西に沈む”といえばこれは太陽という主体がもつ性質を定義している。(本当は地球が回っているという話はここでは無視する)
”2011年元旦、ここ野島崎では、太陽「が」東の洋上からゆっくりとのぼってきた”、と述べればこれは状況を説明していることになる。
日本語は「テニオハ」という助詞を接着剤にしてペタペタと貼り付けて組み立てるプレハブ方式の言語であるから、上の文では、「は」と「が」の違いだけで何を述べているのか区分するという離れ業をしていることになる。一つ使い方を間違えると意味まで不明になるキケンがここにはあるが、その話はまた別の機会にする。
事実を明確に述べる時のチェックポイントとして昔から「5W1H」という文章構成要素が推奨されて来ている。たいていの人が知っているように、これは、WHO(誰が、何が-主体・主語)、WHEN(いつ)、 WHERE(どこで)、 WHAT(何を)、 WHY(なぜ)、 HOW(どのように)のことである。
状況を述べる場合に重要な要素は、「誰が(何が)-いつ-どこで-どのように」在る(自動詞)である。
対象の状況が問題を起こしている場合、その問題の原因追及がなされねばならない。分析された原因は上記の状況説明と同じように、「原因」という「事実」を述べることになる。現在まだ進行中の福島原発の場合、どこから放射線物質が漏れ出しているのか、状況がつかめていないことが”何がどうなっているのか”不安を掻き立てる因になっている。どの箇所で何が起きているのかさえつかめればとるべき対策も明確になるはずである。
(3)解決策、戦略、戦術
問題点とその原因がわかれば、通常は、対策を立てることは比較的簡単である。もちろん、今回の福島事故のような放射能との戦いの中での対策という厄介な相手では簡単な対策などどこにもないが、ここでは一般的なケースを対象として述べる。この対策がどのようなものかを説明するときに、今回の主テーマである「目的語」の話が大きく関係してくることになる。
状況(問題点も含めて)を背景に、主体(私、誰か)が-何を(WHAT=目的語)-どうする(他動詞)を述べるのがここでの核となる。この時、対策が単なる思い付きや原因も分からず手当たり次第にできることをやる、という場合、この「誰が-何を-どうする」という説明がはっきりとできず、従って受け手は「誰が-なぜ-何を-どのように-行う」のかはっきりと理解できないことになる。
問題をはっきりつかんでいなければ打ち出した対策の結果に確信がもてないから、自然に、「誰が-何を-どうする」ということをはっきりと言い切れない。これでは、政府および関連機関の会見を見聞きしている国民の不安と不満がつのるのも当然である。「何を」(目的語)をどうするとはっきりと言い切れない場合、対策は事実(提示された対策=計画も一つの事実)の説明ではなく、「気合」の話しに変身していく。
”身を粉にしてやる”、”神佑天助を信じてやってくれ”、”不眠不休でやる”、などなどのことばのてんこ盛りがあっても、そこには「誰が-何を-どうする」事実は見えてこないことになる。しかも、状況をつかんでない上に責任を取りたくないという心情が加わるとテレビで実況される「会見」は悲惨な様相を呈することになる。
欧州の言語、例えば英語では「主語-他動詞-目的語」という3本建ての構造がはっきりしているから、目的語という柱を抜いてしまえば文章として成り立たない事はその場ではっきりする。日本語の場合は上で述べたように、助詞という接着剤でペタペタ壁を貼り付けていく、つまり柱で構造を支える建て方ではないために、この目的語が抜けていても、発信者も受信者側も気がつかない場合も多い。
”私は-あなたを-愛す”。これは外国語の直訳であり、もともとの日本語ではこのような表現はない。本来の日本語では、”(私は-これは言わない)あなた「が」好き”となり、目的語としては「あなた『を』」であるはずなのになぜか「あなた『が』」となる。さらに、「あなたが」も省略して、”好き”がもっとも日本語らしい表現となる。メロドラマではこれで充分意味も場面もわかるのだが、原発災害の会見で「誰が-何を」が省かれて、”断じてやる”、”必死でやる”、”鋭意努力している”、と気合を込めて言われても、受け手は霧の中から出られない。
日本語には欧州言語の文法にある「目的語」というもの自体がもともとないのかも知れぬ。欧州言語の文法を日本語に当てはめるのはもともと無理なのだろうか。とは言っても、明確な表現がなくてもいいとはならない。
(11.3.24.篠原泰正)