(181) オープン・ジャパニーズ、あるいは平明な文書がなぜ作れない
もう四半世紀以上も前から、イギリスとアメリカで続けられている「平明英語」(Plain English)運動が、分かりにくい文書の最たるものとして槍玉に挙げてきているのが、法律家(lawer)が作成している裁判の判決文であり、また官僚が作成している官公庁の各種フォーム文書である.
この事を知ったとき、日本社会でも英米社会でも、法律家や官僚というのはどこでも同じなのだと笑いを押さえることができなかった.違うところは、英米社会では、どの様な文書であれ平明に作成しよう、という運動が行われているのに、日本では無頓着に難解文書が放置されたままであるところだ.
もちろんお役所においては、わかりやすく説明しようという努力がなされてきているのは私も承知しているが、残念ながらその結果はまだ合格点をつけるところまではきていない.例えば、税金の確定申告の書類は、昔と比べてわかりやすくはなったが、やはりまだ私のようなフツーの庶民が読んですいすいと書き込める状態には程遠い.税金をもれなく集めるという目的があるにしては、行届かないことおびただしい.
なぜなのだろうか.
わかりやすく記述しようという姿勢はあるのだが、どのように記述すれば良いのかが分からないのだろう.誰にとってもわかりやすく書くということは、「お客様」の立場に立ってサービスするという親切心が身についていないと実現はできない.スローガンだけは「お客様は神様です」と壁に貼ってあっても、その心が根付いていなければ、結果としてはやはり「わかっているのは自分だけ」となり、「読んで分からない奴は馬鹿だ」という心が透けて見える.
文書は、読む人にわかってもらおうという心が無ければ、結果としては難解なものになる.他者が読んで分からないのは、書き手である自分の責任であると思わず、読む人の能力の問題だと考えている人には、わかりやすい文書は作れない.
平明な文書はまず何よりも、他者に対する「優しい心」が無ければ生み出せない.この心を持たない人が書いた文書は、読んでいて極めて不愉快である.書き手の心と態度は文書に現れるのである.
一読して意味がつかめない文書が横行している理由のまず第一は、親切心が無い「嫌な奴」が書いているから、ということになる.
(06.6.20.篠原泰正)