明治維新まで、この列島では「国家」という意識はほとんど無かった。もっとも、欧州においても「近代国家」が形成されてくるのはフランス革命以降であるから、日本はわずかに半世紀遅れに過ぎない。その以前は、”お宅のお国はどちらですか?”という質問は、肥後のクニなのか出羽のクニなのかなどを尋ねているのであって、アメリカかエゲレスかを問うているわけではなかった。この「クニ」意識は私の子供のころまでは現実に生きていたから、つい最近までは巨大な近代国家の下でも地方分権意識は生きていたとも言える。
その「クニ」はいつごろから出てきたのだろうか。魏志倭人伝にはヤマタイ国やらなにやら列島には100ほどもクニがあると記されているから、3世紀あたりには既に海の向こうにも聞こえているほど確たる存在が形づくらていたといえよう。そのクニグニはどのように生まれてきたのだろうか。クニが形成されるためには働かない人間が相当数いることが必要である。ここでは働く人とは食べるために営々と汗を流して労働しなければならない人を言うことにする。そのような労働に携わらなくても充分に食べていける人たちが働かないでもいい人ということになる。このような人が出てくると、”暇つぶし”に”クニの経営でもやるか”となる。
海の狩猟民も山野の狩猟民も、元来、「クニ」とは無縁の存在である。原則として一箇所に定住しない民に大地の一角区切って、”ここが俺達のクニだ”と称する概念が生まれてくるはずも無い。遊牧の民もまたしかりである。彼らが近代(フランス革命以来)になって何が一番困ったかは、国境という目に見えない線が引かれて、入っちゃいけない、出ちゃいけないなんて規制を受けるようになったことだろう。大地の上に勝手に線を引いてこれが「クニザカイ」だ、などと称する人間は彼等遊牧の民から見れば、”アンタアホトチャウカ”といったところだろう。
従って、この列島にクニが生まれたのは、水田稲作を持ち込んだ弥生人が一大勢力になってからとなる。水田を新たに作り上げるには大変な労力が必要だから、当然、出来上がった田んぼから離れる事は無い。天変地異が無ければ生涯離れることはない。そして、水田式稲作は生産性が極めて高く、一人の労働力で二人も三人も食べていけるようになる。そこで、泥田を這いずり回らなくてもいい人たち、羽織を着てあぜ道をゆっくりと歩くだけで食べていける優雅な存在が生まれてくる。彼らは何しろ暇なものだから余計なこともあれこれ考え、欲も出して、隣の村の米も召上げてしまおうなんて考えだす。村のレベルから近々の市町村合併の如く大きな存在(郡)となり、さらに郡規模の領域をいくつか合わせるとそこにクニという形が出来上がってくる。そうなると、この暇人は自分の権威を示そうとして古墳なんて無駄なものまで作るようになる。この古墳づくりの労力も生産性の高い米作りが土台にあって初めて可能であった。古代史で「古墳時代」、「豪族の時代」と言われる時代となったわけだ。
そのあと、列島の各地でお山の大将を決め込んでいた「大王」たちの中から、どのようなからくりがあったのかわからないが、やまと地方の大王がナンバーワンの位置を占め、お隣の中国を真似して列島の統一国を作るようになる。後漢王朝が滅びたあと三国だ五胡十六国だ六朝だと分裂していた国が隋によって統一されるのを見たやまと朝廷が大慌てで列島も統一せにゃヤバイということで、ここで「クニ」の寄り合い世帯から統一「国」のレベルになった。その時、列島を60幾つかの「クニ」にスンナリと行政区分できたのは、それ以前から各地の大王たちの「シマ」がほぼ固まっていたからであろう。この「クニ」が”あなたのオクニはどちらですか”のクニであり、今でもまだその意識は残っている。
この時、今の東北地方は、米どころの出羽の国以外は全て十把一(じっぱひと)からげで陸奥(むつ)であったのは、稲作経済に基づく大王たちが存在せず従ってクニの縄張りもなかったためであろう。山野型の縄文人の末裔にとっては残された最後の楽園であった。彼らが勇猛であり中央の統一国家に抵抗していたからというより、この寒冷地では米を作ることができなかったのがやまとから見れば地図上の空白地帯を生むことになったのだろう。
この60余のクニグニがそれぞれ独立的な存在を今に至るまで維持していれば、それこそ世界遺産として登録するに足る貴重な加点となったであろうけれど、残念ながら、今はこのクニグニは金太郎飴の如く、どこを切っても中央の顔がのぞくただの地方に成り下がっているから、これは赤点を付けるしかない。
(11.3.10.篠原泰正)