8月8日(2010年)付けの日経新聞の「クイックサーベイ」に、英語を社内共通語にするのに賛成か反対か、というアンケート調査の結果が載せられていた。調査の対象が20歳代の男女会社員となっているので、結果は極めて片寄ったものとなっていると思われるが、圧倒的多数の73%が反対という結果になっている。その中で、もっとも多かった反対の理由が”英語では微妙なニュアンスを伝えにくい”となっていて、思わず笑ってしまった。私の長いサラリーマン生活(日本企業と外国企業の両方での)において、”微妙なニュアンス”を伝えられるほど英語ができる日本人には片手で数えられるぐらいしか出会ったことがない。(ちなみに私は逆立ちしてもそのようなレベルではない)
なぜ笑ったかというと、日本の企業では、現代の20歳代の若者であっても、話すときには、日常的に、”微妙なニュアンス”に気を使っているのか、という一種の驚きと、英語でビジネスするということにまったく経験が無いのだな、という思いからである。
ビジネスの世界は、”微妙な”違いはあるにせよ、世界共通の土台の上で展開されており、そこでの共通語は英語が独占的地位を占めてしまっている。その英語を誰が使っているかといえば、数えた数字を目にしたことがないので私の感覚で言えば、7-8割は外国語として習った英語使いであろう。このようなビジネスの世界では、”微妙な”表現は必要ではないし、たとえそのような表現ができても、その”微妙さ”加減を理解してくれる人は少ししかいない。
このビジネス世界において、20歳代の若者でさえ”微妙な表現”を気にしている日本人集団は、極め付きの特異な集団であり、考えてみれば、これほど特殊な集団であるのに、よくぞここまで「経済成長」してきたものだ、とまたまた感慨にふけることになる。世界のビジネスの場は、どれだけはっきり言うかどうかが勝負の分かれ目であり、”微妙なニュアンス”なんぞをそこに混ぜてしまえば、”あいつの言っている事は分からん、アホとチャウカ?”、とペケの烙印を押されてしまいかねない。
このように考えると、日本企業(日本に本社を持ち日本の資本が大半を占めている会社)でありながら社内共通語を英語にしようとする企てがいかに破天荒なことであるかがわかる。その志は結構であるが、どう見ても、ステップを一つ飛ばして階段を駆け上がるようなものである。つまり、そのステップとは、大半の社員の母語である日本語ではっきりと表現することにある。上役や同僚の顔色を見ながら、つまり「空気を読みながら」”微妙な表現”に注意を払っているようでは、英語で表現どころの話ではない。
はっきりと言い切っても周りから疎まれず、網走支所に左遷される惧れも無い社内環境があって初めて、”次は英語を共通語にするか”という視界が開けてくる。その環境が無いのに、強力なトップ(社員の誰もがはっきりとそのエライさんにものが言えない)が突っ走れば、出社拒否(できない)社員の山となるだけだろう。
世界の中で生きていくためには、これからは、純粋日本企業にも外国資本が導入され、社員の国籍も多種多様になり、上役は”ガイジン”という様相になるのもごくフツーとなるだろう。その時、不出社社員が増えないようにするためには、はっきり物言う社内環境を作り上げておくことだ。「なぜだ?」と考えられる社員を増やすことだ。なぜ?を考えれば問題点が見え出し、問題点が見えれば解決策も頭に浮かんでくる。そこまでできれば、後は、事実関係と問題点とその改善策をはっきり表現する段階に自然に至る。はっきり言う奴を嫌って網走に飛ばすのではなく、はっきりいわない奴(つまり考えてない奴)を網走に飛ばす社内環境になって初めて社内共通語を英語にする、というトンデモナイ道がかすかに現実味を帯びてくるようになるだろう。
社内環境を昔のままの「村」仕立てのままにしておいて、ある日突然「これからはグローバル」と宣言され、あるいは外国資本の会社に模様替えされては、社員があまりにも可哀そうなことになる。母語である日本語ではっきりと言うことができれば英語を修得する道も自然に開かれてくる。”微妙な日本語のニュアンス”を含んだ表現からは英語への道は閉ざされている。日本人はなぜ英語が修得できないか?答えは、母語である日本語ではっきりと表現できないからである。はっきり言うことを避けるからである。
(10.09.01.篠原泰正)