民族とか階級とかを超えて多くの人に受け入れられなければ、それは文明とは呼べないものだろうから、本質として文明は単純なものであると言える。別の視点からみれば、文明とは、そのシステムに乗っかれば充分に食っていけると、多くの人が深く考えなくとも理解できる仕組みであるとも言えるだろう。
司馬遼太郎さんの本で始めて知ったのだが、一時期、ユーロ・アジア大陸で優勢を誇った遊牧民族の食っていくシステムは文明と呼べるものであったようだ。このシステムは動物、羊や馬を一箇所で飼いならすやり方ではなく、それらの群れの中に人間が紛れ込み、共に移動して行くという画期的なやり方であった。なるほどあのようにすれば食うに困らない、と誰にでも理解できる革命的な発明であったと言える。
その遊牧の反対側には、もっと以前から発明されてきた農耕という食べていくシステムがあった。われわれがその中で息をしている現文明は別名で近代工業文明と呼ばれているように、工業という食べていくシステムが中心になっているが、工業は農業のやり方の延長線上のものであり、特に水田稲作や大規模小麦生産を経験してきた民族にとっては、違和感なく採用できる仕組みである。日本の近代化の「成功」や、あるいは今目のあたりにしている中国の一大工業化大躍進も、勝手知ったる農業の延長で人々が取り組んだだけ、とみれば別に不思議はない。
話がそれそうになったが、工業化も農業の延長線上であるという「単純」さにおいて、広く受け入れられるものであったということを言いたかった。そして、現行文明のリーダはこの200年アングロ・アメリカンと漠然と称される集団であったことは周知の事実であろう。彼らがリーダでありえたのは、その民族性、あるいは文化性において極めて単純な集団であったからと言える。これは公認の見方ではなく、私が勝手にそう思っているだけだが、彼らの指導の下に、現文明の本質である二値性は限りなく極限にまでおし進められてきた。二値性、あるいは二値観とは、何事もイチかゼロ、善か悪か、というような二値で判断する姿勢を言う。自然科学を基盤にする工業の基本はこのイチゼロのディジタルにあるから、まさに現文明の原動力となりえたわけだ。
二値性、ニ値観ということから見れば、中国は元々西洋文明とは別の一大文明圏を築いてきただけに、充分に単純なところがあり、例えば自己と他者を区別するのは「華か夷か」の二値である。自分達が文明の中心(華)であり、回りは夷(野蛮)というイチゼロの区分けで何千年も過ごしてきた。一方ではその「華」、つまり文明を採用すれば自分も「華」になれるわけであり、その気になれば、ややこしいことを学ばなくとも、誰でもその文明に参加でき、自分も華の一員となれた。
工業という面では西洋式が「華」であると確認できてからの中国の速度は、元々文明という単純なやり方に慣れ親しんできた集団にとっては、工業化が勝手知ったる他人の家の如く身近なものであったがゆえに、当然のこととも言えるだろう。
ともあれ、西洋式であれ、西洋式混合の中国式であれ、文明というのは単純性が命(そうでなければ普及しない)であるから、言語でもってその文明のあれやこれやを述べるときにも単純であることが求められる。つまり、文化とか何とかとかの差を乗り越えて、その文明に参加する意思のある人、参加した人誰にでも、そこそこの理解力さえあれば、伝わるように表現することが求められることになる。話を脱線させれば、現文明の中核の言語が、欧州言語の中でもその構造がもっとも単純な英語であることからみても、このことは理解されるであろう。
しかし、言語というのは、その土地の文化の核であるから、そのままにしておけば文明の諸事項を表現する単純明快性に至らない。ある面からいえば、文明の影響力によって固有の文化は壊され続けて行くから、言語も大きく侵食されていく。しかし、この場合の結果は言語が先祖がえりをしていく方向、つまり退行であり、そこでの単純性は未開性、あるいは非知性化というものである。ここでも話を脱線させると、現在の日本社会での日本語の退行はこの現象である。
このように、文化の核としての言語という視点からのみでは、文明を語るに必要な単純明快性は得られないことになる。意識して、文明を語るための言語ルールを構築する必要があることになる。
この単純明快性を妨げているもう一つの要因がある。これは文化というよりは「村」の慣習から来るものであり、日本だけでなく欧米にもあることだから特異性はないのだが、文明の最先端部門を担っている、医療保健、司法、行政(日本では霞ヶ関村を頂点として)、立法(議会)、諸学会、などなど数えていけばいくらでもその実例が存在する。単純明快に表現しない理由は極めて単純であり、自分達の「村」の権威付けのために、村の外の無知なる人間を脅かすためにのみなされている。このことは、文化の基盤に「村」がある日本において特に根深く存在している。さらに、この場で問題にしているように、日本語で表現する上での課題を、文化としての日本語でしか見てこなかった日本においては、文明事項を語る上での障害として、これまで、この諸村の慣習が公に槍玉に挙げられることがなかった。いうまでもなく、特許村で使われている特殊な日本語表現もこの仲間の一つの現象である。
西洋式文明も中国式文明も二値を基本にした単純文明であるから、そこで表現される数々も単純明快を旨としている。それらの本家に、装いだけは「文明化」していて、見た目同じであっても、村の慣習に基づいて、世界にその表現を持ち出しても理解を得られないのは当然のことである。
(10.06.22.篠原泰正)