(290) 随筆、あるいはエッセイ
随筆とエッセイとは別物らしいと気がついたのは、鈍な話であるが、最近のことである。
日本の随筆という形態は、どうやら世界にはないらしい。われわれ日本人が書く随筆は、枕草子の清少納言以来変わることなく、自然やら何やらの対象物と自分との交流を描くものらしい。「春はあけぼの」(が良い)ということだ。
このように、対象物との魂の交感を描写するのが随筆というものであれば、これは日本人の表現形式のもっとも基礎に位置づけられる。慶応のラグビーは「魂のタックル」といわれているが、われら日本人は、自然や他者(対象物)と魂を投げ合って、一身同体となって生きてきた。
昔、江戸の愛宕神社の石段を、馬で上り下りした馬術の名人間垣平九郎は、「人馬一体、鞍上(あんじょう)人なく、鞍下(あんか)馬なし」と褒め称えられた。もしかしたら、この姿が、他者と交流する日本人の極意なのではなかろうかとも思える。
一方、エッセイは、よくわからないが、対象物を客観的に眺め分析した「小品」という位置づけなのではなかろうか。「小品」とは、全体の論理体系を構築した建造物の一部と言うことではなく、それ自体は全体の中の脈絡からは独立した、自由な存在を意味する。まあ、いってみれば、世界を眺める自由な小窓といったものか。
われら日本人が言語で表現する上での得意技を随筆とするなら、事実を客観的に観察し、できうる限り正確に伝える「文書」作成を苦手としていることは、至極当たり前のこととして理解できる。
一つの事実を言語で記述するのは、絵を描くことと基本は変わりない。つまり、全体の構図を定めて、ラフにスケッチしてから細部を描いていく。絵の描き方の基本は、小学校・中学校の図画工作・美術の時間で誰でも習ってきたはずだ。だから、大枠から細部に筆(クレヨン)をすすめる手順は誰もが理解しているところだろう。
それに反して、言語で事実をスケッチするやり方を教える教科は、小学校から大学に至るまでの全教育課程で存在しない。
われわれは、自然物などの事実を言語で描写するとなると、どうしても自分の心が入り込んでの「枕草子」になりがちだから、むしろ、その手法は「絵画作成」に基本を置いたほうがよいのではなかろうかと、最近考えている。
日本の特許明細書でしばしばお目にかかる、いきなり発明を取り巻く細部から話を始める書き方は、絵の描き方を思い浮かべれば、いかに「変なやりかた」かが理解されるだろう。「太郎君、絵というものはね、いきなりちいさな部分から描くのではなく、全体の構図を決めて、その中に含まれるおおきな部分を大雑把に配置し(鉛筆でざっと描く)、それから部分を描くようにするのですよ」とやさしい先生が教えてくれたことを忘れてしまうと、いきなり細部から、いきなりクレームから書き始めたりすることになる。
ピカソの絵をわれわれ素人が理解するのは並たいていではないが、彼はデッサンの達人でもあったから、まともに全体を描くことはできたわけだ。そのことを知らずに、うわべだけ天才の真似をして、目と目があさっての方向に向いて飛び離れているような絵を描いてもらっては困る。ピカソの絵を前にしてうなるのはやむを得ないが、デフォルメされた特許明細書を前にしてうなることはしたくない。
(06.12.28.篠原泰正)