開かれた列島と日本語を目指して
「マッチ・ポンプ」とは、いうまでもなく、自分で(マッチで)火をつけて”火事だ”と大騒ぎして、そのあとすぐに今度は、ガラガラと龍吐水(ポンプ)を引っ張ってきて火消しをする人につけられた形容詞である。この言葉の最初は、私の知るかぎりでは、確か、政治家の一つの典型として使われたと記憶している。議会でこれは大問題であると大騒ぎして、そのあとすぐに、裏に回ってしかるべく事を納めるために奔走する政治家を指してつけられたと記憶する。
政治家ではないが、つい先ごろ、絵に描いたような「マッチ・ポンプ」の実行者の記事を読んで笑ってしまった。今はなんと呼ぶのか思い出せないが、旧日本住宅公団が欠陥住宅を提供していたことが明るみに出て、大騒ぎになったことがある。その時のおエラさん(理事?)の一人が責任をとらされて、すなわち、嫌だというのを無理やり腹を切らせて-これを詰め腹を切らせるという-一件はウヤムヤに終った。終らなかったのだろうがマスメディアが追い求め続けなかったので、私を含めて当事者以外の世間が忘れてしまった。その理事が、なんと、その欠陥住宅の修復を請け負った子会社(独立行政法人の衛星会社はなんと呼ぶのだ?)のトップに収まっていたことがばれてしまった。テメエで欠陥住宅を売りつけ、それがばれると今度は、”私が直しましょう”と修理会社の親方として再度登場していたわけだ。マッチポンプの鑑(かがみ)と言えるだろう。
ところで、本日の主題はこの絵に描いたような典型の話ではなく、私のことである。この場で、一つ二つ前に、プロジェクトなど何でも、現状分析から始めるのが世の中「ジョーシキ」と書き、日本には、その常識に当てはまらないやり方と文書が溢れていると毒づいた。「逆さ富士」や「思いつき」や「わがために鐘は鳴る」といった不純な動機からでたプロジェクトでは、現状分析からはじまるまともな文書はつくれない、と述べた。
この拙文を読んでくれた人は、もしかして、欧米の社会ではこのようなことはない、と受けとめられたかも知れない。もしそうなら、ポンプで消さなければならない。
欧米の社会、特に国家レベルの立法と行政の世界でも、動機不純のプロジェクトは近代以来(1800年ごろからの時代区分)溢れかえっている。しかし、日本と大きく異なるところは、彼らは、不純なる動機をいかにももっともらしく言い立てる術に長けているところにある。簡単に言えば、論理的に見事に嘘をつく、ということだ。
何しろ、”カラスは白鷺である”という命題を論理的に言いくるめる力を鍛えて来ているから、インチキなプロジェクトをもっともらしく言い立てる、あるいは立派なドキュメントに仕立てるぐらいのことは楽々とやる。いかにももっともらしく現状分析から初めて、ゆえにこうなる、こうしなければならない、こうした(事後報告)と一巻をまとめるわけだ。
日本は、ウヤムヤ、ナアナアで、なに言っているのか分からないうちに事態が忘れられていく事をベースにしているから、まともな文書を仕立てる必要がない。一方、欧米社会では、そんなナアナアは通用しないから、「論理的」に大嘘を展開することになる。政治経済の学説などもだいたいはこのようなものだが、そこに話をもって行くと日が暮れるのでやめておく。
従って、日本では、まともな文書が存在しないことを嘆き、欧米では、見た目もっともらしい分厚い報告書の全編が嘘で満ち満ちていることに注意しなければならないことになる。彼等欧米流の展開の仕方の基本は、自分および自分達仲間の都合の良いようにすることにある。そして、その自分勝手な展開を、利用できるあらゆるデータや理論を総動員してもっともらしく仕立てる腕を持っているということだ。まともな理念なんぞ何も持っていなくとも、美しい理念やそれをもう少し具体的に落とし込んだコンセプトなどを麗々しく掲げることも平気でやる。
ということで、結論としては、まともな理念からでていない文書は、日本だけでなく欧米にも溢れていること、しかし、その形式と記述の仕方は大きく違う、ということになる。さらに付け加えれば、このようなインチキ文書のことではなく、まともな理念から出発しての文書は、世の中ジョーシキに従って、キチンと現状分析から展開しようよ、ということになる。
(10.05.01.篠原泰正)