開かれた列島と日本語を目指して
何事かを行う動機が「まとも」でないとき、その行いを提案し、実行を計画した「文書」はインチキに満ちたものとなる。ならざるをえない。なぜなら、そもそも出発点の動機が怪しげなのだから、それを隠してもっともらしいストーリーに仕上げるには、何かをデッチアゲするしかない。
動機不純には3種類ある。
(1)逆さ富士:前にも書いたように、手段が目的にすりかわっている現象を、河口湖に映る富士山にたとえる。正常な姿は、富士の頂上という目的目指して、裾野からエイエイと登っていく手段が土台にある構図だが、この逆さ富士は、上に広がっているのが本来の手段たる裾野である。つまり手段がデカイ顔して目的にすりかわっている姿を示している。何かの目的のために、道路をつくる、空港をつくる、ダムをつくるのではなく、「つくりたい」がためにつくる。なぜつくりたいのかは、ここでわざわざ言うまでもないだろう。この、目的から見れば本来いらないものを、さも必要であるがごとく見せるためには、なかなかの努力が要求されるであろう。需要もないのにあたかもあるが如く見せて、100人中100人が信じていないのに、10年後には黒字になるなんて数字をでっち上げ、もっともらしい文章をひねり出さねばならない。提出された文書が読むに耐えないものになるのは当然のところである。
(2)思いつき:日本の立法と行政は中枢から地方まで、この「思いつき」に満ち溢れている。まともなアプローチは、言うまでもなく、現状分析から問題点を抽出し、その中から課題を設定し、その課題を解決するための方策を考え出し、その策をどのように実行していくかの実施計画を策定するというステップを踏み、それを表現した文書も当然その流れで構成されている。ところが、現状の分析も何もなしに、ある日トイレでうなっているときに「思いついた」案などがポンと出てくると、それをもっともらしいストーリーに仕立て上げるのはなかなか大変であろう。現状分析から書きはじめようとしても、まともに分析すれば、当然、その「思いつき」とはつながりが見えてこないから、このあたりの話しはあいまいにはしょるしかなくなる。問題点を把握しているわけではないから、当然、何をなすべきかの案も導き出せない。そこで、この「思いつき」を粉飾する「思いつき施策」を前後の関係も何も無しにただ羅列するだけとなる。「知財立国戦略大綱」なんぞはこの見本のようなものである。
裁判員制度なんぞもそもそも思い付きからでているから、いまだに、何ゆえにこのような制度が必要か、説明がなされたことはない。ないわけで、そもそも思いつきだから、理由の説明には相当のリキが必要であり、もっともらしく理由付けをすることは多分断念されたのであろう。
(3)わがために鐘は鳴る:今から73年前のスペインの内戦を舞台にしたヘミングウエイ(Hemingway)の小説に「たがために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)」という題名のものがあるが、それをもじると、己の(同じ階級の仲間も含めて)福利厚生のためにのみデッチアゲタ組織(その多くは独立行政法人とか呼ばれている)は「わがために鐘は鳴る」と呼んでいいだろう。現状分析からその組織の必要性が導き出されたものではないから、なぜこの組織が必要で、いかに世の中に役立っているかを説明するのは大変な苦労であろう。そもそもそのような説明書(文書)が存在するのかどうかも疑わしい。このような文書をつくるとなると、よほどの力量がいるだろうから、そのような面倒な手間は省かれているのだろう。
このような、「純にあらざる動機」から生まれた文書が読むに耐えないものになるのは当然であり、そのような文書が(あったとして)大手を振って横行している社会だから、一つの文書がどれほどの重さをもっているものであるか、などの認識はいっこうに根付かない。150年の日本近代史はゴミ文書の累積史ということもできるだろう。
なお、話しはそれるが、この「逆さ富士」と「思いつき」と「わがために鐘は鳴る」の集りが、国の借金800兆円なんて天文学的数字を生み出した核を形成している。まともな文書もそこには無いから、なぜこのような事態になったのか追跡しようとしても、追跡者は途方に暮れるだけとなるだろう。
(10.04.21.篠原泰正)