開かれた列島と日本語を目指して
私が時折利用する都営三田線の白山駅は、地上からホームに辿りつくまでに、110もの階段を下りねばならない。エスカレータもエレベータもない。ひたすら足に頼るしかない。足腰が弱ったお年寄りがこの駅を利用することはほぼ100%不可能だろう。(注:これを書いたあと、道路の反対側の奥まったところに地下に降りるエレベータがあることを見つけた。)
なぜこのようなサディスティックな設計をし、なおかつ開通以来改善の兆しも見せないのは、どういうことなのかと、毎回この階段を降りるたびに考えている。そこで得た一つの答えは、どうも「目的」と「手段」が逆さになっているのではないか、ということだ。目的を実現するために手段がある、というのが誰もが承知の「世の中標準」であるが、世の中眺めてみると、手段が先行し、目的が後でデッチアゲられているものも多い。
都営の地下鉄も、もしかすると、この、河口湖に映る「逆さ富士」の類であり、”世界に冠たる東京をマネージしている都庁であるから、自前の地下鉄ぐらい持つべき”という発想から全ては出発しているのではないか。”都民を初め人々に利用しやすい交通機関を提供する”、という「目的」は元々存在しておらず、地下鉄という交通「手段」を”われわれも持つべき”というところからのみ出発したのではなかろうか。中身、すなわち優れたサービスの提供なんぞは端からなく、路線を一丁仕上げればそれで狙いを達成した、というプロジェクトだったのではなかろうか。地下鉄を敷くという「手段」が「目的」に化けてしまっているわけだから、お年寄りが利用を諦めようが、利用客が少なかろうが、そんなことは全て”知ったコッチャナイ”というわけだ。他社の路線と接続するなんてややこしい仕事に取り組みたくないから、わざわざ他の駅と離れた場所に「自分達」の駅を作り、利用者が増えると運営が面倒だから、なるべく客が来ないように、例えば、交差点から離れたところに駅を作り、地上の出入り口から改札まで長い通路で結んで利用者が二度と利用したくない、と思わせる。
この、目的と手段の「逆さ富士」現象は、何も都営だけの特徴ではなく、ヒコーキが飛ばない空港、車が走らないバイパスや高速道路、四国に行くのに3本もの大鉄橋群などなど、そこら中で見ることができる。いずれも世の中標準を頭から無視した「離れ業」の結果である。建設された空港や道路の需要予測が大幅に下回っているのが多い、などとマスメディアで報じられたりしているが、これはもちろん企画予測の精度の低さ、企画した奴の頭の悪さの結果ではない。最初から、何でもいいから「作る」という手段が目的に化けたプロジェクトであり、その「作る」を見た目正当化するためにッデッチ上げた需要予測であるから、当るわけがない。
特許を取得するというのは、何かの「目的」を実現するための手段であるはずだが、いつの間にか世の中の主流は、”たくさん特許を取る”という「手段」が「目的」となってしまっているように見える。昨年は不景気のせいで出願数が大幅に減ったそうだが、それまでの年間40万件という出願の数は、この「逆さ富士」現象でしか説明がつかない。
手段が目的と化し、本来の目的は何なのか考えることすらなく、目的と化した手段の実現のために、大勢の人間がワッセワッセと忙しくやってきたのが、これまでの日本、特にこの20年のガラパゴス・ジャポニカ諸島の現象であった。歴史は、人間の営みにおいて、手段が目的と化す事象が多発することは、社会の末期症状を示していると教えてくれている。
(10.04.13.篠原泰正)