前の回で「ガラパゴス列島、ニッポン」と題した小文を書いたが、紛らわしいので、太平洋の東の端にある本家のガラパゴス諸島(Islas Galapagos 正式名はArchipielago de Colon)を東ガラパゴスと呼び、太平洋の西の端にある日本列島を西ガラパゴス列島と呼ぶことにする。
この西ガラパゴス列島は150年前まで、ほぼ230年に渡って、わずかな例外を除いては、全面的に国を閉じていたわけだから、ガラパゴスの名を被せてもそれほど不当なことではあるまい。その西ガラパゴスが門戸を開けることになってから、咸臨丸という船でアメリカ視察団を送りこんだりしたのだが、このグループは現地(アメリカ)でその立ち居振る舞いが称賛されるというお土産ももらった。西洋文明とはほとんど無縁であっても、長年養ってきた武士とはどうあらねばという心構えと礼節はまるで異質の社会の人の心も打ったことになる。
また、明治から昭和にかけて、多くの人々が主に南北アメリカ大陸に移民したが、彼らの存在は現地の人から高い評価を得ることになった。このことから、当時の日本人は、庶民の端に至るまで、「名こそ惜しけれ」という鎌倉武士の美学を、800年の時を経て受け継いでおり、己の行動に誇りを持ち、かつ厳しく自らを律していたことがわかる。西ガラパゴス列島で鍛えた美学は世界のどこに出かけても立派に通用したわけだ。
さて、話しは変る。先に(837)で、ドジッタ時の武器は言語力しかない、というようなことを書いた。ところが、昨日(月曜日、2月22日)報じられたトヨタ事件の最新事項は、いささかどころか大いに衝撃的なものであった。その内部文書において、政府機関に働きかけて、リコールのレベルと範囲を小さくできたことを勝利(win)とし、100Mドルを節約できたことが、(なにやら誇らしげに)プレゼンされている。(原文書はワシントンポスト紙がPDFで公開している)。これを見るかぎりにおいては、この事件はもはや、課題は言語の表現力にある、なんて生易しいものではなく、会社としての哲学、もっとも根っこの部分が問題とされることになるだろう。
”俺がこの仕事を請け負うかぎり、俺が作った物を世に出すかぎり、わが名にかけて(わが名誉にかけて)へたな仕事はできない”、という精神の美学が崩れてしまっていれば、これは言語による表現力以前の問題である。この西ガラパゴス列島を世界に開かれた土地とし、同時に、世界のあらゆるところに出かけて行くには、われわれが有する貴重な知的資産を言葉にして表現する力を格段に上げねばならぬ、というのが私が提唱している命題であるが、その根元の精神(美学)が崩れてしまっていては、どうにもならん。
「洋才」は見事なまでに掌中のものとしたが、「和魂」を失ってしまっては、この西ガラパゴスは単に西洋化した観光地に過ぎない、まことにつまらない土地となるだろうし、世界に出かけていってもなにやら後ろ指差される存在になりかねない。
(10.02.23.篠原泰正)