20年近くの前、日本の事務機メーカーで給料をもらっていたとき、"わが社の技術者の士農工商は以下のとおりである:メカ(複写機・プリンタなどの機構をまず決めるから一番威張っている)、化学(トナーなど印刷品質の鍵を握っている)、電気、ソフトウエア、と触れ回って大いに周りの顰蹙(ヒンシュク)を買った。ごく親しいシステムエンジニアの友人から、”それなら俺達はどうなる?”と聞かれて、”あんたらは人外、非人の類”と答えてまたまた非難を受けた。製品のほとんどはまだスタンドアローンが主流であったのどかな時代のことである。同時にコンピュータソフトウエアの技術者はまだまだ日陰者の時代でもあった。
今、”世間をお騒がせしている”トヨタのアクセル暴走問題は、現在のモノづくりの難しさやらなにやら、色々考えさせてくれる題材である。余談ながら、ついでに言っておくと、”この度は世間をお騒がせしたことを深くお詫びいたします”、という謝罪の仕方はアメリカでは存在しない。英語で言い表しようもない。
電子制御の暴走
今回のトヨタ車の不具合は、何もトヨタだけでなく、世界の自動車メーカーのどの車に出てもおかしくない事象であると思われる。昔の車はアクセルペダルを踏めばワイヤが引っ張られ、それによってスロットルが開いたり閉じたりするオールメカニカルなものであった。零式戦闘機もパイロットが右手に操縦桿、左手にスロットルレバーを握って華麗な空中戦を演じていたわけだから、このやり方は年季が入っている。そのやり方が、上に述べたのどかな時代の後、多分この10年ぐらいであろうけれど、劇的に変化した。人間がアクセルペダルを踏む微妙な加減をセンサーが読み取り、その読み取りデータを瞬時にスロットルに送り、それに基づいてスロットルが開いたり閉じたりするという、ワイヤを経ない連携プレイの下で制御されるようになった。
メカニカルな動きとその検知器とコンピュータプログラムの連携であるから、”何がいつどのように”の組合せはゴマンとあり、しかも自動車のように、どんな人間が世界のどんなところで車を走らせているのか、想像を超える人間と環境条件の組合せがあるとなると、私のような素人には、これは人智を超えたところにあるのではと思いたくなる。簡単に言えば、この不具合の原因を見つけ出すのは限りなく困難であろうし、たとえ当面の不具合を解決したとしても、次に別の組合せで不具合が出てこないという保証はどこにもない。現在の世界の自動車はみなこの種の爆弾を抱えているわけだ。
それではどうするべきなのか。私の素人考えでは、アクセルが暴走する場合がある、という前提の下に、そしてその問題を完全につぶすことはできないという前提の下に、まったく別のところで、暴走を抑える制御システムを用意しておくしかない。つまり、エンジンがギンギンに回って止めようがないとき、それを押さえ込む、強いて言えば全てに優越する「絶対的制御権」を持つ非常ブレーキを備えるしかないのではないだろうか。
昔の零戦は、スロットルワイヤが切れてエンジンが止まっても、翼の面積が広いからグライダーのように少しは滑空することができた。パイロットはその間に操縦席から這い出して落下傘で降りることができた。しかし、ジェット戦闘機になると、そのような悠長な話しはなくなり、エンジンが停止すれば、即、石ころのように大空から落ちることになったので、操縦席の椅子ごと火薬でドンと吹き上げてもらう脱出装置が必須となった。なお、前にも書いた覚えがあるが、この椅子ごと噴出装置は第2次大戦中、ドイツの航空機メーカーであるドルニエが発明した物である。何しろ彼らの戦闘機はエンジンを胴体内に2個積んで前と後ろ両方でプロペラを回すという途方もないやり方を採用していたから、それまでの優雅な脱出方法はありえず(操縦席から這い出して飛び降りたら後ろのプロペラに叩かれてしまう)、頭ひねって考え出したわけだ。この発明は特許も取っていたのだが、戦争に負けたドサクサで、米英露からライセンス料を稼いだという話しは残っていない。
電子制御の不具合を新たな電子制御で克服するやり方は、もぐらたたきになりかねないから、異常が起きたときにサイドブレーキの役割を拡大したような非常停止装置を抱えておくしか手はないのではなかろうか。3次元運動の飛行機と違って、自動車は2次元であるから、止まりさえすれば命は助かる。
あるいは、モノづくりの「階級」を変えて、ソフトウエア・システム屋を最上級に据えるモノづくり体制が必要なのか。それでも、ロボットと違って、運転は、何をやらかすか制御不能の人間が行うのだから、そして、彼らのそれぞれが持つ運転の微妙な感覚を無視できないのだから、噴出座席とまではいかないが、なにやらその類の非常事態対応の別システムを搭載するしかないのではなかろうか。
(10.02.04.篠原泰正)