先月1月25日付(2010年)朝日新聞の「グローブ第32号」は、”結婚、アジアの選択”と題する特集であった。読み始めた途端に、”2008年の合計特殊出生率は、日本の1.37を下回る。”という文章に出くわして、その先に進めなくなってしまった。
「合計特殊出生率」という言葉をこれまで聞いたことも目にしたこともなかったので、”なんだ、こりゃ?”、とつまずいてしまった。知らないのは自分だけ、てなことになると無学をさらけ出すことになるので、周りの同年代の知人何人かに聞いてみたところ、誰も知らなかったので、これはどうも知らなくて当り前の「特殊な」言葉ではないかと、いささか安心はした。
この言葉の前後の記事を少し読むと、この出生率は何も「特殊」なものではなく、全般的な出生の率を指しているらしい。そうなると、「特殊」が引っかかる。私が理解しているかぎり、「特殊」という言葉は、常ではないこと、異種であること、全体の中でほんの少し存在していること、などを表す形容詞であり、あまりいい印象を伴わない、端的に言えばいやな言葉、差別的な響きを持つ言葉である。この形容詞を被せた単語を思いつく範囲で上げると、まず「特殊潜航艇」がある。これは真珠湾とシドニー港を襲撃したことで歴史に残っている旧帝国海軍の二人乗り小型潜航艇である。用兵上は、2本の魚雷を発射した後、母艦の潜水艦に帰投することになっていたが、乗組員も送り出す潜水艦の誰もが、そして海軍の上層部の誰もが、襲撃後帰ってこられる可能性は限りなくゼロに近いことを承知していたところの、常道にあらざる船であった。
さらに思いつくのは、高等学校入学の年、昭和33(1958)年に廃止になった「特殊飲食店」およびその集合である「特殊飲食店街(略して特飲街)」である。学校の上級生から、”お前ら可哀そうに、赤線なくなってしまったよ”と同情されたが、その意味がその後しばらく理解できずにいたのでこの単語はよく覚えている。その他、「特殊学校」とか「特殊学級」なんて言葉もあり、これは障害をもった児童のための学校であり、また「普通」の学校の中に特別に設けられたクラスを言う。イヤナ言葉である。最後にもう一つ挙げれば「特殊部落」なんてのもある。これはもっとひどい。
このように、「特殊」という言葉はとてもじゃないがその底に差別的な感じを漂わせたいやな言葉である、というのが私の感覚である。従って、「特殊出生率」となるとどうしても、常ならざる「出生の率」と思ってしまうことになる。
それでは、私の知らなかったこの”特殊”な「合計特殊出生率」とは何ぞやと、グーグルで検索してみると、なんと、厚生省(今の厚生労働省)が10年以上も前から使っている言葉、厳密に言えば人口統計上の言葉で海外で使われている方法にならったものらしい。しからば、何が「特殊」なのかと、今度は英語で検索してみると、これはどうやら、「total period fertility rate」のことらしい。つまり、年齢に特定しての出産の率(age-specific fertility rate)であり、年齢別の率を「総合」してのものらしい。どこにも「特殊」という響きも意味もない。どうやら、元の英語の誤訳から出てきたように見える。
英語で説明されている内容を、実際の算定方法は何しろ数学に弱くて頭に入ってこないのだが、読んだかぎりでは、これは、「特定の年齢における出産の率を総合したもの」、つまり無理やり漢語に仕立てれば、「特定年齢総合出産率」というべきものであろう。なお、ついでに言えば、私の語感では、「出生」とは「生まれ出る」ことであり、これは赤ん坊を主体として数えるものであり、母親を主体としての数ならば、「産み出す」、つまり「出産」を使うべき、となる。
さて、ここで言いたいことは、唯一つである。多分、霞が関の「お上」が使っている言葉であるから、と安心して、また何の疑問も覚えず、そのままに、このいやな語感の、また誤解を招く惧れが多分にある言葉を、丁寧な説明(注釈)無しで平気で使う大新聞の感性のなさに私はいらだつ、ということだ。現在の日本において、美への感性が目に見えて衰えている証拠の一つであり、それが言語の場で現れたものの一つということができる。霞ヶ関には元々「美への感性」なんぞこれっぽっちも期待していないから頭に来ることはないが、言語で表現することを仕事(使命)としている新聞には、せめてもう少し感性を磨いてもらいたいと願うばかりである。
(10.02.01.篠原泰正)