日本では、小学校から高等学校まで、国語の教科は「国文学」とまぜこぜになっている。”アホカイナ”、とこの場で以前毒づいたので、この件はここでは繰り返さない。その国文学(枕草子や西鶴など)に半分以上時間が奪われている上に、本来の国語の時間は、部品(単語)の名称を覚えることをもっとも重要な課題としている。つまり、どれだけたくさん漢字を知っているか、その漢字を組み合わせた単語をどれだけたくさん知っているかで、表彰台に上がれるかどうかが決まる仕組みになっている。部品を組み立てて文章を作る、文章をまとめて一つの文書を作るという訓練は疎かにされている。山ほど単語を知っていても、まともな文章の一つも書けない人間が、この教育のおかげでめでたく出来上がってくる、というわけだ。
もちろん、誰もがこの「パリ-ダカール」レースの如き苛酷な詰め込み競争を乗り越えて来ているわけではなく、多くの生徒は落ちこぼれるであろうし、前の日本国首相のように、苛酷な競争の場を幸いにも経てこなかった人は、国会で「踏襲」を「フシュウ」と読んで恥かいたりすることになる。なお、ついでに言っておけば、この「フシュウ事件」の原因は、苛酷なレースで常にトップを走ってきた霞ヶ関の官僚の「作文」そのものにあり、さらに言えば、官僚の作文をそのまま読み上げることで職をまっとうできるという不思議な世界にある。
1軒の家をがっしりと、スッキリと、美しく建てる能力がないのに、部品(単語)だけは死ぬほど知っている者に文章を書かせるとどういうことになるか。難しい漢字を使った単語がそこら中にちりばめられているけれど、構造がデタラメだから何を言っているのか分からない文章の洪水という結果になる。上に述べたように、何しろ家を建てる(文章を書き、それを集めて一つの文書を構築する)訓練を受けてきていないから、”ヒドイ文章だ”とあまり責めても酷であろうという気もする。
責めるのは酷であるとしても、”華麗なる”漢語(主に2字熟語)をちりばめることで構造の欠陥をごまかすやり方は、受け手もなまじその漢語の意味を理解する能力があるがゆえに、およそ大体こんな意味なのだろうと文句も言わずに受け取ってくれるために、欠陥品であるという告発を逃れてここまで来ている。書き手からみると、ありがたいことに、受け手の方も、その多くは、苛酷なレースに脱落もせず何とか完走を果たしてきたお仲間であるから、ナアナアでことが済んでいるわけだ。
ところで、われわれ日本語を母語とする集団は、先の回でも書いたように、発音が極めて単純であるから、本家の中国では異なる発音とイントネーションで区分されている漢字も日本では同じ発音になることが多い。いわゆる同音意義の漢字とその組合せの熟語がゾロゾロでてくることになる。読めば、字が異なっているから意味を取り違えることはない(もちろん詰め込みレースを完走してきた人に限るが)にしても、耳から聞いただけでは、それこそ得意の素早く頭の中で当てはまる漢字を描くこともできないことになる。
何年か前に、私は「網膜剥離(モウマクハクリ)」で近所の都立駒込病院の世話になった。最初の診断で、急ぎ手術の必要があり、その手術はこのようになされる、と説明を受けた。ありがたいことに説明は丁寧であったが、”ショウシタイの中身を取り除き、その後、レーザーで剥離部分を焼く(溶接する)”というその”ショウシタイ”が最初わからなかった。頭の中で検索した結果でてきた単語は「焼死体」しかなく、これはいかに何でもその場にはふさわしくない。当方が、”ヘッ?”というような顔をしていたからだろう、ドクターは目の玉を描いた構造図を出してきて、もう一度説明してくれた。なんてことない、”ショウシタイ”は「硝子体」、すなわちガラス球のことであった。(お医者さんの漢語好きについては、稿を変えてその内に書くつもりである)。
ともあれ、語って受け手の理解を得るためには、できうる限り、この「漢語」利用を避けて、ヤマト言葉を優先させることが大切となる。読めばわかるだろう、という馴れ合いが、明快な語り、明快な記述を妨げている最大の障害物と言えるからである。
(10.01.21.篠原泰正)