都であれ、モノであれ、心であれ、時であれ、香りであれ、色であれ、何であってもA点からB点へ動かすことを、ヤマト言葉では「うつす」(他動詞)という。勝手に動いていくさまを「うつる」(自動詞)という。
ここで言う「ヤマト言葉」とは、太古の昔から、いや、これはいささか大げさだから控えめに、縄文の昔からこの日本列島に住んできた人たちが話してきた言語の意味で使っている。個人的な感覚では、私自身は「ヤマト」という言葉あまり好まないので、「原日本語」などと言ったりする場合もあるが、言葉はできるだけ普通に使われるものを使うべきであろうから、「ヤマト」で行くことにする。
この「ヤマト言葉」はもちろんれっきとした言語であり、単に「単語」やその発音を意味するだけでなく、言語の体系を含めての総称である。言語の体系という面で見れば、幸いなことに、ヤマト言葉は基本体系は崩れることなく、めでたく今日までながらえている。ついでに言えば、この言語体系の特徴は、一区切り(書く場合は一つの文章)において、もっとも大事な事を尻尾のところに持ってくるという世界でも珍しい配列にある。お尻が重い言語であるから、私はこれを「ボトムヘビー言語」と読んでいる。大阪風に言えば「ケツデカ」である。さらについでに言えば、英語は大事なことを頭でまず言う「トップヘビー言語」である。これまた大阪風に言えば「チチデカ」である。
さて、言語体系はかろうじて中国文明の侵略を逃れたが、文字が意味を持つというこれまた世界に珍しい「漢字」の存在を知ることにより、そのすばらしさに恍惚状態となって、教えられるまま、めったやたら漢字を持ち込むことになった。何しろ、何でもかんでもA点からB点への移動は「うつす、うつる」一つで済ましていたところに、”いやいや、文字を「うつす」ときは「写」という字(意味を含む)を使い、河口湖に富士山が「うつっている」時は「映」を使わねばなりません”、なんてことを教えられたものだから、そこからことがややこしくなってきた。
ものや心を「うつす」ときは「移」を使います、と教えられて、しからば、「近江京から長岡京へ都を移す」なんて書いたら、”おそれ多くも都を「うつす」ときは「遷」を使わないといけない”、なんてしかられたりした。ともかくこのように漢字検定1級合格間違いなし、というほどに学習に次ぐ学習の結果、文章を書くときに「移す、写す、映す、遷す」を使い分けることで、意味をより深く、正しく伝えることができるようになった。
ところが、話す(語る)時はこの「文字」の使いわけはもちろんできないから、われわれは縄文のご先祖以来今に至るまで、「うつす、うつる」一本槍できている。これには二つの原因が考えられる。一つは、文字として4種も導入して使い分けができたのでそれで満足して、別の動詞を作り出す努力をしなくなったためである。もう一つは、欧州言語でも当り前に見られるように、基本的な単語は一つで実に様々な使いわけがなされる、というところにある。
その様々な意味で使われる単語をその場その場に応じて適切に聞き分ける、あるいは、ひらかなで書かれていれば、読み分けるにはどうすればいいのか。その単語の前後関係と一つのセンテンスの中の配列と語られている全体の意味(文脈という?)から推し量ることになる。欧州言語は(あるいは世界中のどの言語であれ)元々「語る(話す)」言語であるから、受け手に正しく伝えるために、この多様な意味を持つ単語の使い方には気を配っている。気を配らざるを得ない。
一方、日本語では、書くときに漢字を使えば使い分けができるために、それに寄りかかって、語る(話す)時の気配りを忘れてきた。また、これもついでに言えば、ヤマト言葉の発音は母音が必ず付く極めて明瞭、言い換えれば単純な構成であるから、中国語のような発音での使い分けができないし、微妙なイントネーションによる区分なども日本語ではほとんどできない。
発音で区別できず、しかも聞く人への気配りも無く話されるとどういうことになるか。聞く人の頭の中は、秒どころかナノの単位で収納されている漢字データベースを検索し当てはまる字を引き出してくるのに大忙しとなる。まことに受け手への大いなる負担を前提にしたやり方が当り前に行われているわけだ。
日本語は、漢字という、意味と記号を兼ね備えた文字の魔力にしびれたまま、1500年という時間を経て来ている。その魔力によって、語るときに、できるだけ相手に負担を掛けずに伝える努力が必要であることを忘れたままでここまで来ている。ヤマト言葉は語る(話す)・聞く言葉が土台であるから、これを改善していけばわかりやすく美しい語り言葉ができたはずなのだが、その改善はなされてこなかった。あるいは少数の人が努力したけれど、大多数を占める「書くこと優先派」(いわゆるインテリのほとんどはこの派閥である)に押されて多数派とはなりえなかった。
語るように書く、というのがここでの主題のつもりであったが、回り道が多すぎて、尻切れトンボとなったので次回に続ける。なお、忘れないうちに付け加えれば、ここで例に挙げた「移る、写る、映る」は学校で「訓読み」と教わる。しかし、これは「読み」ではなく、ヤマト言葉に漢字を当てはめた、しいて言えば「当てはめ語」である。「音読み」は文字も発音も中国からの輸入単語であるから、この二つは概念も種類も生い立ちもまったく異なるコトバであり、並列に同じ範疇で扱えるものではない。日本の日本語学者の頭がおかしい証拠の一つと言えるだろう。
(10.01.19.篠原泰正)