8月半ばから4ヶ月以上この場を休んできたが、もう一度始めることにする。
休んでいる間、”シノハラのブログはどうしたのだ、無いと寂しい”、といった苦情はまったく聞こえてこなかったので、私の連載の価値もおよそお里が知れるというものだ。まあ、無理やり”読め”と押し付けていない分、他人(ひと)様への害も与えていないことになるから、ファンの有り無しを気にせず「新装開店」する。
この場で書くことを休んでいたのは、体調不良のためでも、気力が衰えたためでもなく、残り少なくなった人生の時間の中で何を書き残しておくべきか、全体のアーキテクチャーを考えていたために、めったやたらと書き飛ばすことを控えていたためで、特にこれといった理由は無い。それでも、この「あいあーる村塾」の場にふさわしい題材に専念すべきと考えたので、これからは題材をあちこちに飛ばすのではなく、幾つか限られた題を深く掘り下げることを図りたい。
題材の中でも大きな主題は、そしてこの場にふさわしい主題は、やはり「言語」ということになる。この題に関してはこれまでも相当に言いたい放題してきたので、もうあまり書くネタも無いのではないかと思っていたが、どっこい、何しろ言語という途方も無く大きな主題であるから、言い尽くせるようなものではない。
日本においては、文学的分野は例外にして、近代150年の間、モノづくりで飯を食ってきた集団としては、考えられないほど言語が軽んじられて来ている。そのことについては、これまでの4年間ほどの間に幾つか考察してきてこの場でも書いてきたのだが、時間が経つほどに言語の重要性が大きくなって来ている。
私が、ささやかな声だが、”簡明な日本語で表現しなきゃ駄目ですよ”と叫んで来ている理由は大きく分けると二つある。一つは、「日本の知恵を海外へ」という場合の必要性であり。もう一つは、この列島に海外から多くの人を迎え入れる必要性がこれから急激に増えると感じるからである。
日本の知恵を海外へ、というコンセプトは、これまでこの場で何度も書いてきたように、これからは今までのように、優秀な製品を国内で作って輸出して稼ぐというやり方がどんどんその有効性を失ってきていることが背景にある。このことはもちろん、かつて無かった規模で中国という競争相手が現れたことにもよるが、もっと深い原因は、日本を含む工業化先進諸国が、世界の市場を広げてこなかったところにある。つまり、貧乏人を減らし、日本製品をドンドン買ってくれるありがたいお客を育ててくることに失敗した、あるいはその努力を怠ってきたところに手詰まりの原因がある。その地道な努力を怠り、「一見」金持ち風のアメリカの消費者に頼るイージーな解決策でお茶を濁してきたツケが現実のものになったということだ。このイージーなやり方の延長線上で、”アメリカが駄目なら今度は13億(一説では既に15億)の中国人客だ”、として、かつての農協さんの海外旅行パックの如く、誰も彼もが中国市場に熱い眼を注いでいるようだ。しかし、冷静に眺めれば、中国は既に何でも自前で作れるようになっているから、わざわざ日本から買い求める品は、超金持ち相手の超ぜいたく品か、日本の技術と造形美の粋を凝らした、こればかりはまだ逆立ちしても中国では作れない、といった少量の高価品だけであろう。
製品の輸出ではなく、日本が持っている「知恵」、技術から技能から社会インフラの構築と運営のノウハウまで、何でもかんでも、世界が必要としている知恵を携えて世界に赴き、その場で「作る」やり方に変えていかねばならない。そのステージにおいては、「身体で覚えろ」という伝統的伝授法は通用せず、「言葉」で教えていくことが基本として必要なことは、多分、誰にも理解されるところだろう。
もう一つは、この日本列島に、これから多くの人を海外から迎えねばならない事態になるということだ。既に気象異変の猛威は目に見える形で各地で現れており、これからその度合と広がりは増える一方となってくるだろう。そこにおいて、この日本列島は、多分、もっとも異変の影響が少ない地域となるだろう。もしかしたらそんなに楽観的になれないのかもしれないが、四方を海洋に囲まれている細長い島であることは、広大な内陸地よりも異変が生じる確立は低いはずである。
そこで何が生じるかといえば、この「食える」列島に世界から、特に近場の親戚のアジアから、「気象難民」が押し寄せてくるという事態である。そのとき、これらの新規「渡来者」を受け入れ、できるだけ早く日本社会の中で何らかの社会活動を始めてもらうには、「簡明な日本語」が必要になる。日本で看護師として働こうとやってきても、難解でもって鳴る医術日本語に基づく国家試験なんて壁があると、ドナイモコナイモアキマヘン、ということになる。日本にやってきた人たちに日本語をボランティアで教えている、あるいは教える意欲と頭を持つ人が大勢いても、基本の「簡明日本語」が無ければたいへんな作業になる。あるいは既になっている。
この二つが、私があえて日本語という奥深い主題に取り組むことを続けようとする理由である。この何年もの間、何度か途中でめげてこの題材を放り出そうと思ったこともある。しかし、どうもそういうわけにもいかない。言語は全ての活動の中核にあるものだから。
(09.12.23.篠原泰正)