273)情報の僻地、あるいは国連の英語
(国連(United Nations)が発表する各種の報告書は、英語の他にフランス語、スペイン語、ロシア語、中国語などで読むことができる.いつかも書いたが、残念ながら日本語では得られない.日本語を母語とする人口は世界の2%ぐらいの少数派だから、仕方がない.
国連が出してくる報告書は、その作成過程において何やかやの軋轢(あつれき)が多かれ少なかれあるのだろう.したがって、そこに記述されている事実や提案勧告などを、「国連」の出版物だからといってそのまま鵜呑みにするのは危険であるが、世界がいまどうなっているのかを知る上では、貴重な情報源であることはまちがいない.
その情報源を日本語で読むことができず、また日本の新聞とかテレビといったマスメディアではほとんど報道されないから、ほとんどの日本人は、情報が届かない僻地で暮らしているようなものと言える.インターネットのおかげで、国連が発表するニューズや報告書が発表と同時に入手できるのだが、ほとんどの日本人には、そこに言語の壁が立ちはだかっていることになる.
中学から大学の教養課程の2年間を含めて、8年間学校で英語を学習してきても、国連の報告書が読める英語力を身につける生徒・学生はほんのひとにぎり、多分1%以下、もしかしたら0.1%、千人に一人ぐらいなのではないか.
国連の英語は、世界の人々に向けて発信され、また、多分、その他国連公用言語に翻訳される基盤になっているから、当然の如く、できるだけ平明に記述されている.そうでなければ、国連としての役割を果たせない.したがって、国連の英語は、米国や英国の母語である英語ではなく、国際共通語としての英語で記述されているとみなして間違いないだろう.
そのことは、われわれ日本人が習得すべき(英語を中学からの必修と位置づけつづけるならば)英語のお手本がそこにあることになる.米国や英国の文化に根ざした英語をわれわれは修得する必要はないのだから、それらの国の文学書を読む必要もなければ、文化慣習に根ざした言い回し(イディオム Idiom)などを覚える必要もない.そのような事項を学習さすことで、英語嫌いの生徒・学生を量産するのではなく、国連の報告書を(学年に応じて読みやすいテーマと記述を選び)教科書に使ったらどうであろうか.
もちろんこのような提案が、今の学校システムの下での英語教育に採用される可能性は、万に一つもないことを知りながら書いているので、空しい気もするが、言わないよりはましだろう.
日本人の社会人の英語での表現のレベルの低さは世界でも定評があるところだが、どのように各種の文書、例えば研究論文などを書いていいのかわからない人には、この国連の報告書がお手本になる.これらは、文書の構成形態から文章の記述の仕方まで、お手本の宝庫のようなものである.他者に、物と事と考えを伝えるには、どのように文書を作成すればいいのか、そのお手本がいくらでもある.
日本語で書かれた文書で、このようなお手本になるものは、ほとんど無いとみなしていいから、国連の報告書の体裁とその英語記述をまねして(内容を理解して)、日本語で同じ物事を表現する訓練をするのも一つの方法であろう.国連の報告書と同じように明確に日本語で書くことができれば、それを英語に転換する作業は誰かがやってくれる.あるいは、日本語で明確な表現ができるようになれば、英語で表現する力も同時に身についていく.
反対の面からいえば、母語である日本語で明確に表現できなければ、英語が身につくわけがない、ということになる.したがって、生徒・学生に国連の報告書を読ませることは、論理的に明確に日本語で表現(記述)する訓練にもなるわけだ.
世界への関心を起こし、同時に論理的表現の訓練にもなるのだから、国連のニューズや報告書を活用すべきと、私はこころから、思う.日本は、多額の国連費用を分担しているのだから、大手を振って利用させてもらってもいいはずだ.(06.11.06.篠原泰正)