(267) 確信犯、あるいは意図してのあいまい文章
「私の言いたいことをお察し願います」という甘えの下に文章を書く発信側と、「およそのところはわかりました.御機嫌よう.」と受ける「超寛大」(あるいはお人よし)の受信者の関係から生まれ、日々大手を振って世の中を横行している、あいまいな日本語文章.
この事実をうまく利用している輩が、昔からこの世に存在している.その一群は、主に官公庁、大手企業にみられる.彼らは、あいまいに表現することで責任元をあいまいにする.あいまいな表現でも受け入れられる日本社会の慣習をうまく利用して、自分達の保身を図るわけだ.
もっと悪質な一群もいる.あいまいに表現して、「だます」もの達である.例えば、理解できない条項を並べた契約書で合意を取り付け、いざと言う時は、そのような契約はなされていないと逃げる手を使う.保険の契約書などは要注意である.
更に、何が書いてあるのかわからない文章を書くことで自分達の権威を維持しようとする一群もいる.「さすが先生、アタシ等無学の者にはまったくわからない難しい文章をお書きなさる.えらいものですなー」なんてことで、感心してくれる人は、昔はいざ知らず、いまどきいるとは思えないのに、相変わらず、何が書いてあるかわからないように書くのが自分がエライ証拠、と思い込んでいる人がいる.滑稽というかアホというか、なんとも形容に困るお人達である.
これらの、意図してわけのわからない文章を作成している人たちだけがおかしいのではなく、およそわかったつもりで受信してしまう受け手側も大いに問題がある.寛大な心も結構だが、鴨がねぎ背負ったようにだまされるのは情けないことである.
自分が読んでわからない文章に出会ったら、何が書いてあるのかわかりません、とはっきり突き返すべきで、決して内容を広い心で「察して」はいけない.
「イヤー、さすがに特許明細書は難しいですな.何が発明なのかさっぱりわかりません.」「そりゃそうですよ、何しろ特許明細書は技術文書と法律文書の混合ですから、(素人にわかるわけがないのだ、この馬鹿)、そりゃあなたには難しいでしょう」と騙されたりする.長屋のご隠居風に重々しく諭(さと)されたりすると、とかく大工の熊さんや、八百屋のハチ公なんて素朴な庶民はころりといいくるめられてしまうわけだ.
受け取り手が、わからん文章はわからんと突き返さない限り、この世から「怪奇文書」が消えることはないだろう.(06.10.26.篠原泰正)