一つの「キレイ」というヤマト言葉(原日本語)でもって、四つの意味に使い分ける日本人の特性について、以前、このブログの場で書いた記憶がある。(いつ書いたかは定かでない)。一つは「美しい」であり、二番目は「清潔」であり、三番目は「整理整頓」で、最後は倫理的に「まとも」、という意味で使われる。
私は、日本人、あるいは日本文化の特性は「美学」または「美意識」にあるのではないかと思い続け、何かの折には、その仮説の検証を心がけて来ている。この美意識は、形としては「造形美」に現れ、精神としては、「キレイに生きる(または死ぬ)」という美が心の中に内蔵されている。この精神における「美意識」は、それだけでもって、大げさに言えば、日本社会の秩序を800年の長きに渡って保ってきたほどの力を持っている。このことを別の角度から言えば、日本人には、キリスト教やイスラム教などの宗教は必要なかったし、今でもない。民衆を秩序立てるそのような宗教をもっていなくとも、一人一人の「美意識」一つで社会の枠組みは維持されてきた、と言える。
西洋というわれわれには極めて異質の社会からもたらされた文明を取りこんで来た中で、造形における美の感性を工業製品に付け加えることによって、日本は独自の位置を占めることができた。日本の製品は単に安く、性能・機能がよく、耐久信頼性が高いがゆえに世界を闊歩(かっぽ)できたわけではない。それらに加えて、日本文化に深く根差す美の感性で味付けされているがゆえに、世界の多くの人から受け入れられてきた。
さらに言えば、それらの外面に現れた結果だけでなく、制作のプロセスにおいて、”俺が作る限り、俺が担当している限り、ヘタなモノを世に出すわけには行かない”という一人一人の誇り、つまり、「名こそ惜しけれ」の美意識が働いてきたからこそ出来上がった、ということができる。
モノづくりにおいては、文化の特色をうまく混ぜ合わせることで西洋の文明を見事に取りこんできたわけだ。その一方で、この成果は、土台のところで、目に見えない、文化に根差す味付けがなされているがために、海外で同じものを作るときには厄介な障害となる場合がある。モノづくりは、ディジタルの時代になっても、”図面どおり作ればいいや”というわけには行かない。いかに組み立て工場が機械化されようとも、人間が介在する場面が無くなるわけがなく、従って、携わる人の人間的資質という課題が常につきまとう。具体的には、海外での製造には、常にこの、人間の資質に関係する「不具合」(結果としての不良品)という問題が付きまとう。
この問題はまた別の場で考えるとして、ここでの主題は、モノづくりではなく、言語による表現(という作り)である。文明は、実物と図面と言語(書籍・文書)でもってもたらされる。現物と図面は目で見れば理解できる(もちろんそれなりの基礎が必要だが)。一方、言語で表現された事項を広めるためには、そこの文化で使われている言語、われわれの場合は日本語に転換する必要がある。幕末期、西洋文明の言語の一つであるオランダ語から始まるこの言語転換に苦労してきた先人の努力があったからこそ、上に述べたような成果の土台ができた。
しかし、その「転換作業」は完全なものとはほど遠かった。欧州言語と日本語の間にある構造上の大きな差異を克服して、明確、明晰な日本語での表現は完成されなかった。しかも、日本語は、西洋文明の前には、もう一つの巨大文明である中国からの「言葉(単語)」の輸入という長い長い歴史があったために、二重構造となっており、そのための混乱も克服されないままに今日に至っている。もちろん、漢字という世界でも珍しい表意文字があったればこそ、無数といっていいほどの西洋の単語を日本語(漢語)に転換することはできた。しかし、もちろん、言語の体系まで変えるわけにはいかなかった。
言語の体系を変えてしまうことは文化を捨てることと同じである。その危機を、日本は、中国から漢字を輸入したときと、明治維新以降、何でも西洋モノという時の二回、乗り越えてきて、日本文化の存立維持に成功してきた。そのことは偉大なことではあったが、日本語によって文明事項を明確・明快に語る努力は、明治のどこかで放棄されてきたままになっている。
必要性という面から見れば、西洋文明は導入、すなわち受け入れだけの一方通行であり、従い、「日本人にわかりさえすればよい」わけだった。何が述べられているのか良くわからない難解な翻訳書であっても、日本人読者は何とか意味を理解しようとしてくれたし、漢字の特性でもって、おおよその「雰囲気(意味)」は理解できる(あるいは理解できたと思い込む)として受け入れられて来た。
この受身の一方通行だけでなく、輸入した西洋文明を日本文化で味付けした、世界でも珍しい混合文明を輸出するニーズ(必要性)は意識されなかった。文明を語る言語、昔はラテン語、今は英語の場合は、文明を広めるために、否応なしに、構造的に簡明(あるいはできうる限り原則的に)に磨いて行く必要があった。言語の構造がしっかりしていないと学べないから、当然の作業がそこでは必要であった。日本語の場合は、外の世界に向けて、簡明にするという必要性はでてこなかった。
キレイな日本語文章、つまり、美しいというよりも「整理整頓」された日本語文章、世界に向けて発信される上で必要な日本語文章の構築への努力は、必要性も感じられないままこれまで見捨てられてきた。従って、どのように文章を構築するかの標準書も存在しない。
世界が必要としている多くの知的資源を日本は持っている。しかし、残念ながら、それを明快に語るための言語表現マニュアルをわれわれは持っていない。
(明日以降にも続けます)
(09.08.01.篠原泰正)