キーワード:傲慢(arrogance)
現在の文明社会の特徴の一つに、人や自然に対する傲慢な態度を挙げることができるだろう。
人に対する「傲慢」な態度は、二重に現れる。一つは国内社会の他者、特に弱者に対するときで、もう一つは、文明化が自国より劣る(と思い込んで)他国の人に対するときに現れる。
自然に対する傲慢とは、地球自然は人間に奉仕するために存在する、という姿勢にある。つまり、自然を尊敬する心を持たないことを指す。
上に挙げた「傲慢」は現文明の本家である西洋世界で顕著であり、さらに言うなら、アングロ・アメリカン世界で著しい。それならば、礼節の国(であるはずの)日本は、つまり日本人はこの傲慢な態度をまぬがれているかといえば、残念ながら答えは”ノー”である。特に、現文明の国家形態の一つである帝国主義という西洋の悪癖を真似したときに、アジアの近傍の国々の人々に対する姿勢にこの傲慢が数多く見られた事は、少しでも日本の近代の歴史を知っていれば誰にもわかるところである。それなら、敗戦の後、反省して、この態度が、アジアや他の「開発途上」と不当にも呼ばれている国々の人に対して、なくなったかといえば、これまた残念ながら、程度は低くなったとはいえ、消滅していない。
そもそも、「先進国」だ、「開発途上国」だというようなレッテルを貼ること自体がまさに「傲慢」の表れの一つであり、そのような表現をやめる気配がない事は、傲慢な人間がゴロゴロいる証しと言えるだろう。
「arrogance」の語源はラテン語であり、辞書を引くと、この動詞形は「arrogate」とあり、意味は、権利などの詐称を言うらしい。つまり、傲慢とは、元々インチキをベースにしたデカイ態度であると言えるのかも知れない。形容詞は「arrogant」であり、この言葉の反対語は「polite」である。これは「上品な」という語感であるから、その反対語の「arrogant」は、傲慢な、というだけでなく、下品なという感じがプラスされているととらえた方がより正確になるだろう。傲慢な態度とはまさに下品な態度であるから、まちがってはいないだろう。
この傲慢がどこから出てくるのかを考えると、すぐにわかるのは、”無知ゆえに”ということだ。つまり、先にキーワードで挙げた「ignorance」に直接関係している。無知ゆえに傲慢な心や態度が生まれるわけだ。
誰にでもわかる表現に努力しない姿勢も、この傲慢から生まれていると言える。原因はそれだけではないにしても、”俺は「お上(おかみ)」である、下々の(アホ)にわかるように述べる必要なんてない”、という姿勢から生まれてくると見て間違いではないだろう。(明快に表現する能力にそもそも欠けているということは、ここでは論じないことにする。)あるいは、「お上」の替わりに、”俺はエライ学者である、医者である、検事である、裁判官である”としても同じである。
そして、人に対する傲慢だけでなく、地球自然へのわれわれの傲慢な行いの結果、地球が壊れはじめている。本来、西洋世界よりも何倍も、自然と共に生きるという姿勢を保ってきたはずのわれわれが、この破壊活動の一翼を担っているとは、まことに残念なことだ。しかも、反省の色が少なく、”何とかせにゃならん”ということで西洋世界をリードするどころか、西洋の後ろをチョロチョロ付いて回って、親分が”アー”といえば”アー”といい、”ウー”といえば”ウー”という有様ではどうにもこうにも、ということになる。しかし、この後ろチョロチョロという追随姿勢は、ここでのテーマである傲慢とはまた異なるものだから、この話はやめる。
ともかく、傲慢な心は無知から生まれるものであり、その態度はまことに下品である、ということだけを確認して今回の話はおしまいにする。
(09.07.21.篠原泰正)