キーワード:無気力(inertia)
一つの文明社会が末期になると、「社会的無気力(social inertia)」が社会を覆うという。社会が若く健康なときには、問題が出てくると、その原因を分析し解決策をひねり出し、その解決策を皆で討議し、実行計画を策定し、解決に向けて突っ走るわけだが、社会がへたってくると、その社会の構成員に広がった無気力(inertia)ゆえに問題が放置されたままになり、時間が経つと、当然、その問題がますます大きくなるから”どないも仕様がない”と人々はますます自分の穴倉の中に閉じこもったままとなる。これを「不毛の悪循環(futility vicious circle)」と呼ぶのだそうだ。
というわけで、今日のキーワードは「イナーシャ(inertia)」である。この言葉は、物理学の世界では自力で動かず「慣性」で動く状態を指すようだが、社会学では「lack of activity or interest」となる。まさに、世の中のことごとに興味・関心を持てず、能動的な行動をとることなく引き籠る状態である。
辞書を見ると、形容詞「inert」の類義語は、motionless, inactive, passive, inanimate, sluggishなどが挙げられており、反対語は、dynamic, animated, active, brisk, lively, energetic, vigorousなどであるから、これで大体の感じはつかめるであろう。
現文明社会の先進諸国は、誰にも共通に、とてつもなく大きな問題に直面している。一つはこれまでの度外れた活動の結果引き起こした地球の異変であり、同じくはちゃめちゃな消費による石油等の地下資源の減少であり、もう一つは今回の金融危機や富の分配の不均衡の拡大など社会全体のゆがみである。これはまさに「パーフェクトストーム」であるけれど、それらの巨大問題に対して本気の対策は何一つ取られていない。そして、問題が放置されているから、時間が経つにつれてますます手が付けられない様相が現れてくる。まさに、イナーシャの下の「futility vicious circle」に落ち込んでいることになる。
なぜこういうことになるのか。文明の末期症状だから、と言ってしまえばそれだけのことであるが、そのように観察して傍観すること自体がまさにイナーシャの表れと言うことになろう。
考えて見ると、イナーシャの言葉の意味の解説として上に挙げた「lack of interest」が、この不毛の悪循環をもたらす最大の要因ではなかろうか。現実を眺めて、”「なぜ?」こういうことになっているのか”、と疑問を起こさなければ、何らかの行動がとられるわけがない。この「なぜ?」が人々の間で消えつつあることを私は憂い続けている。全ての出発点であるこの「なぜ?」が消えていけば、そこには、対策を考える頭の活動もなければ行動も生まれるわけがない。
仮に、他者から問題を指摘されても、「なぜ?」の心が失われていれば、”そう言われても、俺の問題ではない”、”誰かが何とかするだろう”、”どうせ改善を提案しても没にされるだけさ”、”行動を起こしたら俺だけ不利な立場になる”、などなどの心が働き、今日は昨日の続きであり、明日は今日の続きという日々の中に埋没したままとなる。余計な事を考えず、さんまのテレビ見て、ひいきのJリーグの試合を応援し、タイガースの六甲おろしを唄っていればいいや、ということになる。
この「なぜ?」の力が育たなくなったのは、生まれてから中学卒業までの社会の環境と教育の政策とシステムに原因がある。教育の根本は、一人一人の子供の中に、この「なぜ?」の力を芽生えさせ育てる支援にあるのだが(私はそう考えている)、文明社会の一つの典型である日本社会では、反対の方向、すなわち「なぜ?」を考えさせない方向に進められてきた。うむを言わさず与えられた範疇の事項を覚えさす教育が軸に据えられ、その施策に合致した子供が「成績優秀」となり、乗れなかった子供は「落ちこぼれ」とされる。
「なぜ?」の力が育っていなければ、その後、歳は重ねても修復することは難しい。否、修復というより、土台ができていなければ、年月とともにその上にさまざまな知識や分析力や表現力や行動力を積み重ねて行くことは難しい。このように、「lack of interest (興味・関心の欠如)」の結果として、無気力(イナーシャ)が社会的にも蔓延し、地球の状態も社会の状態も、日々悪化の一途を辿ることになる。
関心の喪失が、物理学で言う「イナーシャ 惰性」となり、”これじゃまずいな”と気がついたとしても、あるいは他者から指摘されたとしても、これまでのやり方を変えることなくそのまま「踏襲」(フシュウではないヨ)して日々を送ることになる。文明の末期症状が蔓延する中で、「改善」を叫ぶ少数の人たちには、”まことにご苦労さん”、という事態が続くことになる。
(09.07.18.篠原泰正)